長沙走馬樓呉簡所見調納入簡初探
作者:阿部幸信  發布時間:2010-01-15 00:00:00

(日本 中央大学文学部)

一.問題の所在

  一九九六年に湖南省長沙市走馬楼にて発見された大量の三国呉の簡牘(以下「走馬楼呉簡」(1))は、孫呉政権に関する情報の乏しさを補うものとして、かつ、後漢から西晋に至る諸制度の変化を追ううえでの格好の材料として注目されたものの、最初に公表された吏民田家莂(「田家莂」(2))と呼ばれる大型木簡群が他に類例のない内容・形式をもっており、文献の欠を補うどころか接点すらないものであったために、大方の関心は急速に後退した。これに続いて明らかにされつつあるのが、主に賦税や名籍にかかるとみられる膨大な小型竹簡群(3)で、ちょうど図録本の第三集が上梓されたばかりである(4)が、点数ばかり多くつかみどころがなく、今後の整理を待つ部分も多いと目される(5)ところから、刊行開始より短からぬ時日が経過しているにもかかわらず、現状では、ようやく初歩的な検討が加えられはじめた段階である。
  かような経緯から、当初寄せられた期待の大きさに比して、呉簡研究はいまひとつ盛り上がりを欠き、新しい方向性を見いだせずにいる(6)が、そんな中で近年着々と手堅い成果を積み上げているのが、伊藤敏雄・谷口建速らの米納入簡に関する一連の議論(7)である。もともと走馬楼呉簡には、(田家莂も含めて)賦税とかかわる内容のものが多いという特徴があり、賦税納入簡に注目が集まるのは自然な流れで、その結果として孫呉の物流システムの一端が徐々に判明しつつあることは喜ぶべきことである。しかるに、目下のところ、あくまでも徴発された賦税の「流れ」が問題とされるにとどまり、賦税納入簡にみえるさまざまな税目の制度的位置づけを具体的に把握する目処が立っていないことには、留意しておく必要がある。
  走馬楼呉簡にあらわれる諸税のうち、公表後もっとも早い段階から注目の対象とされてきたのが「調」である。ひとつ実例を挙げると、
  入中郷嘉禾二年調()布一匹三丈八尺嘉禾二年八月一日東㚘丘男子黄元付主庫吏殷連受

一‐七六八五(8)

と書きなされるもので、こうした調納入簡は図録本第一集・第二集(各々『竹簡壱』『竹簡弐』(9))を通じて数多く認められる。漢晋間における戸調制の成立過程(10)について考えるうえで、孫呉政権は、時代をともにするという意味で重要な、戸調制を創始した曹魏とは一線を画すという意味では微妙な、位置にある。そのことを反映して、呉簡の調の位置づけについては諸説あるが、いずれにしても、これまでは文献から検討するしかなかった漢魏交替期の調の実態について把握するうえでの関鍵になることは間違いない。
  呉簡の調について最初に言及した王素・宋少華・羅新は、走馬楼呉簡に「上品」「中品」「下品」「下品之下」といった戸品(11)がみえるところから、これを戸調と認識した(12)が、まもなく高敏による反論を受けた(13)。高は、①走馬楼呉簡には「戸調」と熟した用例がない、②呉簡中の「調」字は多くが動詞として用いられており、「調発」「調運」の意と解すべきである、③呉簡には口算・算賦の施行痕跡があり、戸調制とは両立し得ない、という三点を掲げたうえで、調を臨時徴収的なものと捉えた。これに対し、王素は、人を単位とする口算・算賦と戸を単位とする戸調との並存状況が孫呉にはあったと主張し、また呉簡では「調」字が「入……調布」という書式下に多く出現する以上、それは(動詞「入」の目的語として)名詞とみるべきだ、と唱えた(14)。
  その後『竹簡壱』が公刊され、それを受けて現れたのが、于振波による専論(15)である。于説の焦点は、戸調制により諸税を定制化・一本化した曹魏に対し、孫呉は制度外的で随意性の高い漢代の調を継承した、というところにある。その根拠は、①品目が布・麻・皮など多様である、②戸を単位に徴収される税目を「戸租」「戸算」などとする表現が呉簡にはない、③納入する数量が一定でない、といったところにおかれている。うち①に関しては、呉簡中の獣皮納入は布の代納であるという中村威也の指摘(16)があり、必ずしも成り立たない可能性があるが、呉簡の「調」を戸調と断ずることについては、于の言うとおり、依然問題が残るであろう。ただし、そのことに立脚しながら、曹魏に比して孫呉のほうが社会矛盾をよりいっそう増加させる傾向にあったとする于の見解の妥当性は、別に問われる必要がある。
  爾来三年余、『竹簡弐』が公にされて材料が大きく増加したのにもかかわらず、調についてはとりたてて議論されない状況が続き、右で紹介した諸説間の対立点も解消されぬままになっている。しかし、上述のとおり、呉簡中の調の性格について明らかにすることは、呉簡全体を理解するうえでも、戸調制の成立について考えるうえでも、欠くべからざる過程と思われるのであり、小型竹簡の公表が半ばにも達していない現段階で結論を急ぐことはできぬにせよ、『竹簡壱』の時点で止まっている知見を一歩進めておくことには、一定の意義を認めうるであろう。そのための情報整理を試みたものが本稿である。
  なお、図録本第三集(『竹簡参』)は、本稿執筆(二〇〇八年一月)とほぼ同時に出版されたものであることから、その内容を参照・活用できていない点、あらかじめ断っておく。

二.調納入簡とその書式

  走馬楼呉簡中の納入簡の書式については、中村威也・伊藤敏雄による形式分類がある(17)。中村の獣皮納入簡の分類によれば、
  Ⅰ式:入+郷名+丘名+人名+年+皮種と枚数年月日+烝弁+付庫吏+人名+受
  Ⅱ式:入+郷名+皮種と枚数年月日+丘名+人名+付庫吏+(人名+受)
に分けられるという。Ⅱ式の末尾が( )に入っているのは、中村論文が著された当時、該当する獣皮納入簡のすべてにおいてこの部分が断簡になっていたからであるが、『竹簡弐』には、
  入廣成郷調麂皮一鹿皮四合五枚嘉禾二年八月十一日掾黄客付庫吏()()()

二‐八九〇二

という類例があり、後半の丘名の部分が省略されているものの、中村の推測どおりの結ばれかたをしていたことが現在ではわかっている。また伊藤敏雄によれば、米納入簡は、
  A形式:「入」、郷名、納入する米の種類、米の数量、〈「冑畢」または「僦畢」「冑米畢」〉、「」、年月日、丘名、〈身分〉、姓名、「(ママ)」、「邸閣」姓名(署名)、「付」、「倉吏(または三州倉吏)」姓名(署名)、「受」(自署か)
  B形式:「入」、身分、姓名、納入する米の種類、米の数量、年月日、「関」、「邸閣」姓名、付、「倉吏」姓名、「受」
  D形式:、米の種類、米の数量、〈「冑畢」(または「冑米畢」)〉、「」、年月日、丘名、〈身分〉、姓名、「付」、「倉吏(または三州倉吏)」姓名(署名)、「受」、〈中〉
の三種に主に分類できるという(〈 〉は欠ける場合があることを示す)(18)。若干の相違はあるものの、Ⅰ式とD形式、Ⅱ式とA形式はそれぞれ類似しており、文書の性格はともかく、書式に関する限りは、共通性を認めてもよさそうである。一方、B形式に該当する獣皮納入簡は存在していない。
  では、調納入簡についてはどうであろうか。
  (1)入桑郷嘉禾二年所調布一匹嘉禾二年八月廿六日何丘大女許貝付庫吏殷連受

一‐七八〇〇

  (2)入都郷嘉禾二年調布一匹三丈八尺嘉禾二年七月十三日敖中丘大男李赤付庫吏殷連受         二‐五四九七
  (3)入模郷氐下丘大男唐禿嘉禾二年調二匹嘉禾二年十一月□日付庫吏殷  ?

一‐七四九三

  (4)入都郷横溪丘男子張□調布四匹三丈九尺嘉禾二年十月十二日烝弁付主庫吏殷連受

一‐八一九五

  さしあたって細部については措き、大まかにまとめれば、(1)(2)は、
  入+郷名+年度+調+品目+数量年月日+丘名+身分+姓名+付庫吏殷連受
  であり、(3)(4)は、
  入+郷名+丘名+身分+姓名+年度+調+品目+数量年月日+烝弁+付庫吏殷連受
  である(ゴシック体はその表現自体がみえることを、それ以外は該当する任意の文言が入ることを示す)。仮に、前者を書式甲、後者を書式乙と名づけるとして、書式甲は中村のⅡ式に、書式乙はⅠ式に、近いことがわかるだろう。『竹簡壱』『竹簡弐』をとおして、書式の判別がつく調納入簡は三三九ある(19)が、うち書式甲が三一一、書式乙が二八で、いまのところ圧倒的に書式甲が多い。また、伊藤のB形式に該当するものは存在していない。
  両書式の主たる相違は、①納入者と思われる姓名がの後ろにくるか前にくるか、②「烝弁」という人物の出現の有無、にある。うち②については、中村威也が、Ⅰ式獣皮納入簡に関する考察の中で、米納入簡における「邸閣董基」との関連性を指摘している。
  入西郷嘉禾二年税米三斛冑畢嘉禾二年十月廿六日上俗丘男子朱旻關()()()()付三州倉吏鄭黒受    一‐三三四二
  中村の説明によると、この「邸閣董基」が納入者と倉吏との間を媒介している(20)のと同様、烝弁も納入者と庫吏との間に介在していた者だという。その際、中村は、吏とおぼしき董基の場合は名の「基」だけが自署であるのに対して、「烝弁」は姓名ともに自署であるらしいことから、烝弁は庶民であり、Ⅰ式獣皮納入簡は上段に記された者の獣皮を烝弁がとりまとめて庫吏に納入したか、烝弁が責任を持って庫吏へ納入したことを記したものである、と結論した(21)。調納入簡についても適用しうる、正鵠を射た見解と思われる。なお(3)の一‐七四九三は、釈文の上では「烝弁」を欠いているが、写真版を見ると、年月日と「付庫吏殷連受」の間に数文字分の空白があることから、何らかの理由で烝弁が署名しなかったものであり、書式の相違や部分的省略ではないとみてよい。
  これを前提として①を解釈するなら、書式甲は介在者が不在のとき、すなわち納入者が直接庫吏に納入した際に作られたものと考えられる。平たく言えば、書式甲では「入」の主語が納入者、書式乙では烝弁、ということになる。こうした相違が生ずる理由は不明であるが、少なくとも、納入者の属性に原因があるわけではない。なぜなら、
  入中郷嘉禾二年調布一匹三丈八尺嘉禾二年八月七日緒()()大男()()付庫吏殷連受

二‐五四九六

  □□()()()()禾二年調布四匹三丈四尺嘉禾二年十月八日烝弁? 二‐六〇四六
  からわかるとおり(22)、同一人物とみられる者の調納入簡が書式甲と書式乙の両方にまたがって出現するケースが存在するからである。前者のほうが日付が早く、後者のほうが納入数量が多いため、後者は分納したものを集めたデータとも考えられる(23)が、これだけでは断定できない。
  何しろ条件が調わないので、両書式の機能の相違にはこれ以上踏み込めないが、それにしても課題は山積している。節を改め、まずは烝弁ともかかわる納入主体の問題について検討していくことにしよう。

三.納入主体について

  調納入簡のひとつの特徴として、納入者の身分が田家莂よりも詳しい点が挙げられる。田家莂においては、県・郡・州の吏・卒、ならびに特殊な身分である士・復民を除くと、男子・大女の二種類しか存在しないが、調納入簡には大男(一‐一二九五ほか)・男子(一‐四六六一ほか)・大女(一‐七八〇〇)といったありふれた身分呼称や、郷吏(一‐五一二〇・二‐六九〇七)・県吏(二‐三九五九・二‐五五〇七)・郡吏(二‐五九二一)・吏(一‐六八三四・一‐六九二六)・掾(二‐八九〇二)とみえる吏たちのほか、「民」「伍」「力田」の存在を見いだすことができる。
  入廣成郷周陵丘()單□二年調布四匹嘉禾二年十一月六?    一‐六八八一
  入廣成郷調杋皮一枚嘉禾二年八月十三日彈浭丘()()李名付庫吏? 一‐八三六八
  入□[郷]二年調布七匹嘉禾二年[八]月十九日上利(?)丘()()?二‐四五五〇
  入都郷二年新調布一匹嘉禾二年八月廿日因疒丘()()呉?()黄漢付庫吏殷連受

二‐五三一八

   [年]新調布一匹三丈八尺嘉禾二年八月廿四日因疒丘()()()□如付庫吏殷連受        二‐五四七一
  入南郷嘉禾二年調布七匹三丈九尺嘉禾二年七月廿五日伻丘()()李帛付庫吏殷連受

二‐五五三七

   [()]()潘明二年所調         二‐六三一一
  このうち「民」については、
  集凡起五月一日訖十五日()入嘉禾二年布合廿匹三丈六尺   一‐八一九七
  入錢畢()自送牒還縣不得持還郷典田吏及帥    二‐二九四三背
  入西郷新還()入黄龍三年限米六斛嘉禾元年十二月□日郭溲[丘]□□關邸閣□?

二‐八九〇六

  のように、汎称として用いられるのが通例であるが、納入簡において個人に冠する身分呼称とされた例はごく少数にとどまる。名籍には、
  ()胡文年六十三腹心病            一‐七六七一
  ()男子王婁年七十八             二‐二一二一
  ()大女黄情年六十四              二‐二四二九
と、「民」を単用するケースと「男子」「大女」と連用するケースとがあるが、そこに使い分けがあったのか、またそれが調納入簡の「民」と関係するのかどうかは、現時点では不明である。ただ、先にみた二‐五三一八・二‐五四七一において、「歳伍」とセットで「民」が出現している(24)ことは、「伍」について考えるうえでの参考となる。
  「伍」は、『竹簡壱』では四例(八一二二・八三六八・八五四六・八五八六)に限られ、またいずれも「月伍」であり、身分呼称とみなされることもなく看過されてきた。しかし、『竹簡弐』には一七例も登場し、月伍と対照可能な「歳伍」なる名称も現れたことによって、これを特別視せざるを得なくなったのである。伍といえば、『続漢書』志二八百官志五に、
  里に里魁有り、民に什伍有り、善惡 以て告ぐ。本注に曰はく、「里魁は一里百家を掌る。什は十家を主り、伍は五家を主り、以て相ひ檢察す。民に善事・惡事有れば、以て監官に告ぐ」と。
  とあるのが想起される(25)が、これが呉簡中の「伍」と重なるものかどうか速断はできない。ただ、歳伍や月伍の役割の少なくとも一部は、次の諸例にみえるとおり、個別の民を「主」ることであったようではある。
  □□[尾]()()婁樵()()阿洞南?(26)           一‐八一二二
  伍婁尾()()婁樵()() ?                   一‐八五八六
  「所主」は「主る所」とも「主とする所」とも読めるので、前者に解する必然性はないともいえるが、走馬楼呉簡においては、
  □□()()桐丘民?    一‐七〇五七
  典田[掾]黄欣嘉禾五年()()□□?    二‐三一六七
のように、担当ないし管理の対象を示す文言と考えてよい。歳伍・月伍が民を担当・管理していたのであれば、先に指摘した「歳伍」と「民」が同時に出現する調納入簡においては、その「民」が歳伍に担当・管理されていることが示されているのであろう(27)。そうした担当・管理対象の規模については、
  右()()卒□()()()八十八戸(28)     二‐五一九
  ()()番祝()()()五十五戸     二‐六一九
  ・右()()謝胥()()()七十五戸         二‐一一〇五
とみえている。この「領」が「主」と同じ概念を示すとするなら(29)、歳伍についていえば、その行う「吏民」の担当・管理は五戸を単位としたものとは限らないらしい。後二例は五の倍数だが、二‐五一九の八八戸の場合は五で割り切れないからである。ほかに、
  □()()()()()      二‐五二五
  領()()()()()下品  ▼     二‐五八〇
といった例もあるが、これらは歳伍でも月伍でもなく「歳月伍」で、とくに二‐五八〇は「領」字が「歳月伍」の前にあることから、「伍」が「五戸」を「領」した事例ではなく、何某かの上位者が「領」する「歳(伍および)月伍」とかかわる多数の戸のうち五戸が「下品」に分類されることを述べたものと解釈できる。なお、歳伍・月伍が吏民を担当・管理するだけでなく、上位者――恐らくは公権力――による担当・管理を受ける対象でもあったことは、
  ()()()()朱政龔□?     二‐六五八五
という表現からも推測されるとおりである。
  歳伍・月伍による吏民の「担当・管理」の具体的内容は詳らかでないものの、二‐五三一八・二‐五四七一において同一の歳伍がそれぞれ別の「民」の調納入にかかわっているところから推すと、少なくとも歳伍の場合には、担当・管理下にある民戸からの賦税納入に関与する資格を有していたとみることができそうである(30)。もっとも、それらの簡にみえる歳伍の姓名は写真版でみる限り自署ではないらしく、また、
  入郷上俗丘()()入□     二‐四五八一
のように歳伍は書式乙の前段にも現れるので、その「賦税納入への関与」のありかたは、(書式乙の後段にしか現れず、かつ自署される)烝弁の場合とは異なるとみるべきである。二‐五三一八と二‐五四七一とでは納入日が異なるため、歳伍が納入のとりまとめ役であったのかどうかも、いまのところは判断できない。唯一わかることは、烝弁が不特定多数の丘からの納入を媒介しており、丘内部の社会との直接的な接点を有さないらしいのに対し、歳伍・月伍の所属は丘名によって示されていることから、彼らは丘を単位におかれた可能性が高い、というところまでである。ただし、田家莂から判断するに、八八戸とか七五戸とかいった多数の戸を擁する丘は存在しないので、「丘を単位に」といっても、それはすべての丘ごとに一人というわけではなく、ときに複数丘を管轄するものであったのかもしれない。別稿(31)で明らかにしたとおり、丘内には当該丘に居住実態をもたない(=別丘に居住する)民戸の耕地が混在する場合があり、結果として、各丘に所在する耕地は必ずしも常に同一郷に属するわけではなく、耕作者の所属に応じて管轄主体の郷を異にすることもあった。が、調は耕地に対する賦課ではないと思われるので、丘内に居住実態をもつ民戸を一括して一単位とすることができたのであろう(32)。
  右を要するに、歳伍・月伍は、五戸を担当・管理の単位とするものではなく、告姦を掌っていたかどうかも定かではない。池田雄一は、漢代の什伍の長について、①地域の事情に通じたものが選ばれる、②自然村の取り締まりを目的としている、③長吏によって置廃される非常置のものである、の三点に基づき、必ずしも什伍の単位におかれるわけではなかったとする(33)が、歳伍・月伍が(伍そのものではなく)身分呼称であり、丘を単位として置かれ、上位者に「領」されている、といったことに鑑みれば、それらは池田のいう「什伍の長」に近いと考えてよかろう。「歳」「月」が「伍」の前に付されるのは、歳伍が年単位、月伍が月単位で吏民を担当・管理するものであったからと思われるが、そうした時限性は、これらのものが常置でなかったこととかかわるのかもしれない。
  してみると、歳伍・月伍は、いわば在地社会と公権力との結節点に位置していたわけであるが、それと似通った存在のひとつが力田であった。
  入都郷嘉禾元年税米廿三斛嘉禾元年十一月十日員東丘()()彭萌()黄□?

二‐一二八九

  入都郷嘉禾元年税米十七斛四斗嘉禾元年正月十七日坉中丘()()樊建()潘洲關邸閣郭據付倉吏黄諱史番慮  二‐二七二六
  歳伍の場合と同様、「民」に先立って力田の姓名が記されている。それが自署でない点も、前出の二‐六三一一のように書式乙の前段に出現する点も、歳伍と同じである。周知のごとく、力田は三老・孝悌と並んで漢代史料に散見され、『後漢書』紀二明帝紀建武中元二[五七]年条李賢注では、
  三老・孝悌・力田、三者は皆な郷官の名なり。三老は高帝置き、孝悌・力田は高后置き、郷里を勸導し風化を助成する所以なり。
  と説明されているが、孫呉では賦税納入への関与も役割の一つであったことになる。さらに、調納入簡にはみえないが、
  嘉禾二年布二匹三丈九尺嘉禾二年八月廿三日曼溲()()黄[誼]付庫吏殷連受

二‐五四五八

  とみえる「丘魁」も、類似した性格のものと目される。魁については前掲『続漢書』志二八百官志五にみえているが、それはあくまでも「魁」であった。走馬楼呉簡中にも、
  ()鬿()周鵲()(34)    二‐二八九〇
という例があり、里魁の姓名の直後に「領」と記されている(=そのあとに対象となる戸への言及があるらしい)ところから、やはり民ないし吏民を担当・管理していたことがわかる。里と丘との関係(35)が依然明らかでない以上、丘魁を里魁と等置することにも慎重であるべきではあるが、何より当時の丘に「魁」がおかれていた点には注意しなくてはならないし、両者の職掌に大幅な懸隔がないのならば、丘魁が民を担当・管理していた公算も大きいことになる。
  さて、いささかこみ入ったが、調の納入主体の身分呼称の示すところについては概ね判明した。ただ、すでに述べたとおり、田家莂・名籍にはここで示した身分呼称の多くが現れないのであるが、それは該当する者に関する簡が見つかっていない(ないしは未公表である)からではなく、田家莂・名籍において必要とされないデータであったからだと考えられる。例を挙げると、
  ……()()()主          二‐一八八二
  *夢丘男子(○○)()()、佃田五町、凡廿四畝、皆二年常限。其廿畝旱不収布。定収四畝、爲米四斛、畝布二尺。其米四斛八斗、五年十二月十日付倉吏張、周棟。凡爲布八尺、准入米四斗八升、五年十二月二日付倉吏張、周棟。其旱田不収錢。其熟田畝収錢八十、凡爲錢三百廿、付庫吏潘有畢。嘉禾六年二月廿日、田戸曹史張愓、趙野校。

五‐七七四(36)

  嘉禾二年布二匹三丈九尺嘉禾二年八月廿三日曼溲()()()[()]付庫吏殷連受

二‐五四五八(再掲)

  *郭渚丘()()()()、佃田三町、凡廿三畝、皆二年常限。其廿畝旱不收、畝收布六寸六分。定收三畝、爲米三斛六斗。畝收布二尺。其米三斛六斗、四年十二月七日付倉吏李金。凡爲布三丈九尺二寸、四年十二月十日付庫吏番有。其旱田畝收錢卅七、其熟田畝收錢七十。凡爲錢一千七百、四年十二月十日付庫吏潘有畢。嘉禾五年三月、田戸曹史趙野、張愓、陳通校。           四‐三四二
のように、丘(里)魁と同姓同名の人物の田家莂において、身分呼称が「男子」とされているからである。無論、同姓同名であるというだけで一〇〇パーセント同一人物とは断定できないし、年度も異なるので、途中で身分に変更があった可能性も残りはするが、それにしても見逃せない問題である。少なくとも、二‐五四五八と四‐三四二で所属丘が異なっている点については、夙に森本淳が指摘しているとおり、田家莂において同一人物が別丘に出現する事例のあること(37)から、別人と判断する材料にはあたらないといえる。だとすると、調納入簡(を含む納入簡全般)においてのみ多様な身分表記がなされることの特殊性が際立ってくるが、しかし、理由はよくわからない。田家莂は耕地およびその作柄に応じて課税額が決定されるが、調の場合は算出の根拠が異なりそうなので、そのあたりが関係しているとも考えられるものの、想定の域を出ない。詳細は向後に委ねるしかなさそうである。
  こうした身分の問題のほかに、納入主体とかかわって触れておかねばならないのは、歳伍と「民」のような担当・管理の関係が疑われるもののほかにも、連名で調納入が行われた事例があることである。
  何丘男子()()()()嘉禾二年調布一[匹]         一‐六九三三
  入南郷嘉二年所調布一匹嘉禾二年七月廿九日語中丘男子()()()()付庫吏殷連受

二‐五五〇〇

  右は一部にすぎず、こうした事例はほかにもいくつかある。前者が書式乙、後者が書式甲であることからわかるとおり、書式の如何とは無関係で、納入日・納入者の身分にも特定の傾向はない。こうした納入方法がとられ得たのは、孫呉の調が戸単位に賦課されるものではなく、一定範囲の戸全体に割り振られた総額を満たすよう納める形のものであったからではなかろうか。書式甲において前段に丘名のみが記されることや、丘を単位としておかれていたらしい歳伍が「民」の調納入に関与することを考慮するならば、その「一定範囲」は単一ないし複数の丘を単位として設定されたものであると考えられる。数戸ごとにしか織機のなかった当時にあっては、出機による布帛生産が恒常的であったとされ(38)、そうした背景が戸単位の賦課を容易ならざるものとしていたのかもしれない。前節の末尾でみた緒中丘の朱典のように、同一人物が同一年度に複数回に亙って調を納入する事例が発生することも、如上の諸事情を反映したものであろう。
  無論、すでに言及したように、走馬楼呉簡中には四種の戸品(上品・中品・下品・下品之下)(39)がみえており、うち「下品之下」には調が課されなかったことも、
  □女戸()()()()()()調()        一‐四二三三
から明らかなので、孫呉において家産評価がなされていたことは確かであるし、それが何らかの形で調とかかわっていたことも疑いないが、累進課税が存在したという確証は目下のところ得られていない。田家莂による課税では、各戸の耕地面積と作柄に応じて賦課額が決定されており、戸品に基づく累進課税よりもさらに煩雑な手続きがふまれているが、田家莂に複数名を併記したものは存在しておらず、連名で納入されることもある調と同列に論じられるか疑問である。孫呉の口算・算賦についても現状では不明点が多く、それらをはじめとした孫呉の税役体系全体を考える中で、戸品の問題は改めて検討されねばならない。よって、戸品がみえるということだけを理由に戸調制の存在を見いだすことには、いましばらく慎重でありたいと思う。
  以上、煩雑になったが、納入主体とそれに関連する問題について、指摘すべきことはすべて述べおえた。さらに歩を進めよう。

四.賦課・運用の主体

  孫呉政権下における調が戸調制の成立過程の中で到達していた段階について論ずるためには、于振波が試みたように、その調が定制化されたものなのか制度外的賦課なのかを弁別する必要がある。于は結局、状況証拠を挙げるにとどまったが、『竹簡壱』『竹簡弐』を詳しくみると、調を賦課する主体について記されたものが、わずか二例ながら存在している。
  [入]□郷嘉禾二年()()調()()二匹嘉禾二年十月三日……?    一‐六九四七
  入平郷嘉禾二年()()調()()二匹嘉禾二年九?    二‐六四二〇
  「吏(官)の調する所の布」という表現は、この「調」が明らかに動詞であることを示しており(40)、かつ、主語は「吏」「官」にほかならない(41)。これらはいずれも断簡であり、後段に納入者が示されているとは限らないが、仮に調納入簡でないとしても、調という賦課が制度的裏づけを有するものであれば、吏や官を主語に立てた表現はそもそも現れないのではないかと疑いたくはなる。
  その一方で、このような事例もある。
  ()桑郷二年新調布一匹嘉禾二年九月一日柤下丘?    二‐五七〇九
  ()中郷二年調布二匹三丈八尺?     二‐六一五六
  後者はともかく、前者は後段に丘が記されており、これに続いて個人名が挙がっていたことはほぼ確かである。しかも、体裁は書式甲をとっており、ゆえに、「出」の主語は後段にみえる個人――おそらくは民戸――であると考えられる。とするなら、この例においては、ある個人が調された布の支出を受けていた、ということになりはしないか。制度化されたものにせよ、臨時的なものであるにせよ、それが一方的な賦課であるなら、一個人がそれを改めて出すなどということはあり得ない。このことは、走馬楼呉簡中にみえる調について考えるうえで、きわめて重大な問題であると言わねばならないだろう。これまで、調関連簡はすべて納入簡として考えられてきたが、『竹簡弐』において右の二例が出現したことで、もはやそれは許されなくなったのである。
  個人による「出」がいかようにして行われ、なぜそれが可能であったのか、現時点では充分に明らかにし得ない。ただ、参考になるのは、
  入桑郷嘉禾二年所調()()()一匹嘉禾二年七月十三日東平丘男子殷柱付庫吏殷連受

二‐五三六七

  [入]□郷嘉禾二年所調()[()]?     二‐五九四五
  [郷]嘉禾二年所調()()()三丈九尺?     二‐五九九八
とみえる「冬賜布」が調の品目として挙がっていることである。冬賜布の存在は『竹簡壱』においても知られていたが、これが調の対象に含まれていたことは、『竹簡弐』ではじめて判明した。これをいかなる性質のものと理解するかであるが、『蜀志』巻三六趙雲伝の裴注に、
  『雲別傳』に曰はく、「(諸葛)亮曰はく、『街亭の軍 退きて、兵將 復た相ひ(をさ)めざりき。箕谷の軍退きて、兵將 初めて相ひ失せざるは、何の故ぞ』と。(鄧)芝 答へて曰はく、『(趙)雲 身 自ら(しりへ)を斷てば、軍資の什物 略ぼ棄つる所無く、兵將 緣つて相ひ失すること無きなり』と。雲の軍資に餘絹有れば、亮 將士に分賜せしむ。雲 曰はく、『軍事に利無かりしに、何為れぞ賜有る。其の物 請ふ 悉く赤岸の府庫に入れ、十月を須つて冬賜と為せ』と。亮 大いに之れを善しとす」と。
とあるように、「冬賜」とは冬期のはじめに頒布する布帛を指すようである。走馬楼呉簡にみえる冬賜布を同様のものとしてよいなら、これは冬期の頒布に備えてあらかじめ備蓄したか、あるいはいったん頒布を受けたものを返却したもの、ということにはならないだろうか(42)。とすれば、冬賜布については、単なる収奪でなく、一定の目的をもって備蓄・頒布されたものと考えるべきなのであり、さらに先ほどみた個人による「出」の事例もこれと類似した物資のやりとりと考えるなら、疑問は氷解する。それが行われる機会については、例えば、
  入樂郷()()()()三年私學()()准米四斛()()嘉禾二年九月廿九日()()()()?

一‐五一九〇

にみえるような、個人(この場合は領山丘の謝某)からの求めに応じた米の貸与などが該当するものと思われる。
  要するに、走馬楼呉簡にみえる調(のすべてとはいわぬまでも、少なくとも一部)は、それを制度化された税目あるいは臨時的な調発・調達と考えるより、民への頒布・貸与のために物資をプールする措置、もっと言えば、民間における物資の余剰・欠乏を調整するためのものであったとみるほうがよさそうなのである。漢代において、郡国間の財政の不均衡を調整する「調均」という措置が存在していたことが知られている(43)が、そのミクロ版とでもいうべきであろうか。その際、調整の主体となったのは、
  四匹一丈六尺匹直三千六百布付()()()()()領如解盡力絞促    一‐三七三二
とあるとおり、調の出納を行っている庫吏殷連が県吏であることから、県であると考えてよいだろう。
  以上に大過なければ、孫呉における調とは、曹魏・西晋の戸調制のような制度的に整理された段階に達する以前の、臨時性の強い漢代的な調の延長上にあるが、それは必ずしも収奪だけを目的としたものではなく、場合によっては調発した物資を県が民間に還流させて不均衡を調整するようなことも行われたらしいのであり、であってみれば、孫呉が曹魏に比して民生の安定を軽視していたとは一概に結論できまい。調を切り口にして問われるべきは、こうした孫呉政権の「調」の運用が時代的要請に適切に沿っていたかどうかなのであり、賦課の軽重や定制化の有無そのものではないのではなかろうか。

五.結言

  冒頭で示唆したとおり、依然として不明点が多く、今後の情報増加も期待されることから、文字通りの情報整理にとどまったが、得られたところをひとまずまとめるならば、以下のようになる。
  ①調納入簡の書式は二通りあり、それぞれ主語が納入者(書式甲)・烝弁(書式乙)となるが、烝弁の役割や両書式の機能的相違は不明である。
  ②孫呉の調は単一ないし複数の丘を単位に賦課され、その徴収にあたっては、歳伍・月伍など丘内部の社会に影響力をもつ立場の者が関与した形跡がある。
  ③孫呉の調は定制化したものではなかったようであるが、単なる臨時的調発であったわけでもなく、いったん調発された物資が県レベルで民間に還流させられることさえあった。
  ④ゆえに、調賦課の方法・内容だけから、孫呉が曹魏よりも社会矛盾を増大させる傾向にあったとは言えない。
  しかし、あくまでもこれは、現段階での見通しにすぎない。何しろ、納入簡全体の体系的な分析・検討はこれまで試みられたことがなく、調納入簡と「調」字を有さない納入簡との間にいかなる差異があるのか、確たることは言えない状況にある。本稿では両者を厳密に区別せず、場面によっては双方を通用させたが、その手法に誤りがなかったと、自信をもって言い切ることには躊躇を覚える。また、納入品目の具体的内容――そもそもこの「布」がいかなるものであるかについても、充分な議論はなされてきていない――や納入量のことには踏み込めなかったし、調の臨時性ないし定制化を考えるうえで極めて重要と思われる「二年新調」という頻出の文言については、問題点の指摘すらできなかった。すべては今後の課題である。
   
  註
  (1)概要については、長沙市文物工作隊・長沙市文物考古研究所「長沙走馬楼J22発掘簡報」(『文物』一九九九‐五)、胡平生・李天虹『長江流域出土簡牘与研究』(湖北教育出版社、二〇〇四年)第七章第四節「長沙走馬楼三国呉簡」などを参照。
  (2)走馬楼簡牘整理組[編著]『長沙走馬楼三国呉簡 嘉禾吏民田家莂』上・下(文物出版社、一九九九年)。
  (3)走馬楼簡牘整理組[編著]『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[壱]』上・中・下(文物出版社、二〇〇三年)、『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[弐]』上・中・下(文物出版社、二〇〇六年)。
  (4)走馬楼簡牘整理組[編著]『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[参]』上・中・下(文物出版社、二〇〇八年)。
  (5)本稿執筆時点で、第八集までが予定されているとの情報がある。詳しくは拙稿「『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡[弐]』刊行によせて」(『中国出土資料学会会報』三五、二〇〇七年)を参照。
  (6)現在の呉簡研究が陥っている困難については、羅新(森本淳[訳])「近年における北京呉簡研討班の主要成果について」(『長沙呉簡研究報告 第三集』長沙呉簡研究会、二〇〇七年、所収)が率直に告白している。
  (7)伊藤敏雄①「長沙走馬楼簡牘中の邸閣・三州倉・州中倉について」(『九州大学東洋史論集』三一、二〇〇三年)、②「長沙走馬楼呉簡中の「邸閣」再検討―米納入簡の書式と併せて―」(太田幸男・多田狷介[編]『中国前近代史論集』汲古書院、二〇〇七年、所収)、谷口建速①「長沙走馬楼呉簡よりみる孫呉政権の穀物搬出システム」(『中国出土資料研究』一〇、二〇〇六年)、②「長沙走馬楼呉簡における穀物関係簿初探」(『民衆史研究』七二、二〇〇六年)など。
  (8)簡番号は前掲註(3)の各図録本に従う。引用にあたって、第一集・第二集を区別するため、簡番号の前にそれぞれ「一」「二」を補ってある。釈文も基本的には図録本に従うが、写真版をもとに改めた箇所もあり、うちとくに必要のあるものについては、その都度註を立てて説明を加えた。
  (9)前掲註(3)。
  (10)戸調制の成立に関しては、唐長孺「魏晋戸調制及其演変」(『魏晋南北朝史論叢』三聯書店、一九五五年、所収。『唐長孺文存』上海古籍出版社、二〇〇六年、再録)、渡辺信一郎「戸調制の成立―賦斂から戸調へ―」(『東洋史研究』六〇‐三、二〇〇〇年)などを参照のこと。
  (11)走馬楼呉簡にみえる戸品については、張栄強「呉簡中的“戸品”問題」(『呉簡研究』第一輯、崇文書局、二〇〇四年、所収)・于振波『走馬楼呉簡初探』(文津出版社、二〇〇四年)九六~一〇〇頁に詳しい。
  (12)王素・宋少華・羅新「長沙走馬楼簡牘整理的新収穫」(『文物』一九九九‐五)。
  (13)高敏「読長沙走馬楼簡牘札記之一」(『鄭州大学学報』二〇〇〇‐三)。
  (14)王素「呉簡所見“調”応是“戸調”」(『歴史研究』二〇〇一‐四)。
  (15)前掲註(11)于書、巻四「漢調与呉調」。
  (16)中村威也「獣皮納入簡から見た長沙の環境」(『長沙呉簡研究報告 第二集』長沙呉簡研究会、二〇〇四年、所収)六〇頁。
  (17)前掲註(16)中村論文五四~五六頁、ならびに前掲註(7)伊藤論文②三〇八~三一二頁。
  (18)前掲註(7)伊藤論文②では、この他に「C形式」に分類しうる書式が存在することを指摘しているが、集計簡であると考えられるため、ここでは割愛する。
  (19)実際には、後述するように、納入簡だけでなく支出簡も含まれている。両者を分けてカウントしていないのは、簡冒頭の欠損のため、納入簡と支出簡の区別がすべてについてはつけられないためである。
  (20)前掲註(7)伊藤論文①によれば、「邸閣」の直前の「關」は動詞に読まれる(「邸閣董基に關す」)べきものである。
  (21)前掲註(16)中村論文五五頁。
  (22)『竹簡弐』釈文では二‐五四九六の納入者の姓名を「先典」とするが、写真版では「先」字の「儿」の部分が「八」のように書かれ、上の部分の縦画が下に出ているようにも見える。次の二‐六〇四六では、簡の上部が縦にささくれたように裂けており、縦画の有無が判断できない状態である。また、「中丘」の上の「□」の部分について、左側に「糸」の下部のようなものが見えている。以上から、①二‐五四九六の「先」は「朱」、②二‐六〇四六の丘名は「緒中丘」、③「典」の下は「禾」(「嘉」字の脱誤か。『竹簡弐』釈文は「元」)、と判断した。
  (23)朱典にかかわるものとして、これらのほかにも、
  ?[大]男朱典二年布二匹嘉禾二[年] ?     一‐四五六三
  ?月八日緒中丘男子朱典付庫吏殷連受     二‐五四八四
  という納入簡があり、これらも分納分に該当する可能性がある。ただ、いずれも「調」とは記されておらず、仮に獣皮にみられる口算の代納(前掲註(16)中村論文五八~五九頁参照)に準ずるものだとすると、調納入にかかるものとは言えまい。なお、同一人物が単年度内に調を複数回納入した事例としては、ほかに、
  入廣成郷嘉禾二年調布一匹嘉禾二年十一月十三日()()()()()付庫吏殷連受

一‐八二八八

  入廣成郷嘉禾二年所調布一匹嘉禾二年八月十五日()()()男子()()付庫吏殷連受

二‐五五三八

  というものもある。
  (24)「歳伍」と「民」が並存する事例には、ほかにもう一例、
  [()()]呉()?          二‐五七三三
  というものがある。断簡であって納入簡かどうかも定かでないが、いずれにせよ、本文中で掲げた二例と同じく、「歳伍呉」と「民」との組み合わせである。それが偶然によるものかどうかは、今後の検討を俟たねばならない。
  (25)漢代の伍制については多くの研究蓄積があり、枚挙に遑がないが、さしあたって、池田雄一「中国古代の伍制」(『中央大学文学部紀要』史学科一九、一九七四年、初出。改題後、『中国古代の聚落と地方行政』汲古書院、二〇〇二年、所収)を参照。
  (26)「月伍」、『竹簡壱』は「□五」と釈す。写真版を見ると、この二字の左半が消えかかっているが、それでも「月」は判読でき、「五」も左に寄っていて、もともと「伍」であった公算が大きい(人偏らしきものもかろうじて見える)。加えて、一‐八五八六の月伍婁樵と同姓同名であることを勘案し、釈文を改めた。
  (27)のみならず、複数の「伍」が併記される場合もある。
  □□()烝開()()黄□□主𣾷丘?       一‐八五四六
  ()婁尾()()婁樵所主殷           一‐八五八六(再掲)
  もっとも、いずれも断簡であって、前者が歳伍なのか月伍なのかも不明であり、両者間に担当・管理の関係があったのかどうかも不明である。
  (28)「歳伍」の次が「卒」となっており、兵制としての伍を連想すると「(歳)伍卒」とも読めそうに思えるが、他の例から推して、この「卒」は姓とみるべきであろう。別字(「率」)の可能性もあるものの、写真版からは判然としない。
  (29)「領」が担当・管理の意であるらしいことは、
  □日訖卅日()[()]()嘉禾二年調布          二‐六四七一
  からもうかがえる。ただし、この字義の「主」が「所主」と書かれるのに対して、「領」の場合は単独でも用いられるという相違もある。なお「所領」は、
  ()倉吏黄諱潘慮()()黄龍三年税呉平斛()六十三斛三斗六升為稟斛()  一‐一九〇一
  のような米支出簡に頻出し、また、
  入[倉吏]黄諱番慮謹列()()()八月旦簿       一‐二三五九
  とあるごとく、米簿に関しても用いられている。
  (30)このことを歳伍に限定して述べたのは、「月伍」と「民」が同時に現れるケースがないだけでなく、月伍が民を「領」したことを明確に述べた事例が存在しないことにもよる。本文で引いた一‐八五八六のように、月伍が民を「主」ったと記したものは存在するので、月伍が何らかの形である範囲の民を担当・管理していたことは確かであるが、それが「領」とイコールなのか、その中に賦税徴収への関与が含まれるのか、といったことを詳細に論ずるための材料は不足している。単に憶測だけなら、伍は年間を通じた担当・管理を行うので、賦課から納入まで一定のタイムスパンが見込まれる賦税納入に関与しうるが、伍にそれはできない、とも言えてしまうが、現時点でそれを証拠立てることはできない。他日を期したい。
  (31)拙稿「小型竹簡と旱敗率よりみた「丘」」(前掲註(16)書、所収)。
  (32)もしそうでないとすると、田家莂において複数丘に同一人物が出現すること(後述)の説明がつかなくなる。しかし、実のところ、調納入簡においても同一人物らしき者が複数丘に現れるケースが存在するのである。
  禾二年[新]調布一匹嘉禾二年八月十六日()()()()()()付庫吏殷?      二‐三九五九
  入桑郷嘉禾二年新調布一匹嘉禾二年七月十七日()()()()()()付庫吏殷            二‐五五〇七
  これを田家莂の場合と同様に考えてよいとするなら、孫呉の調が耕地に課されていた可能性や、田家莂に基づく賦課と調との有機的連関を想定しなくてはならなくなるが、そのためにはいましばらく検討を重ねる必要がある。
  (33)池田雄一「漢代の地方少吏」(『中央大学文学部紀要』史学科一七、一九七二年、初出。改題後、前掲註(25)池田書、所収)五九三~五九六頁。
  (34)「鬿」、『竹簡弐』釈文に従い「魁」の意と解す。
  (35)この問題に関する論考は多いが、最新の、かつ先行研究をよく網羅したものとして、侯旭東「長沙走馬楼三国呉簡“里”“丘”関係再研究」(『魏晋南北朝隋唐史資料』二三、二〇〇六‐一二)を挙げておく。
  関連して、丘を基準として書かれる調納入簡の中にも里を記したものが存在している点、指摘しておかねばならない。
  入南郷宜陽()調布一匹嘉禾元年九月十四日大男□?      一‐一二九五
  [入]南郷宜陽()元年[調布] ?     二‐三九三九
  ただしいずれも「南郷宜陽里」で、他の里は現れない。
  (36)田家莂の簡番号・釈文(句読点を含む)は、前掲注(2)書に従う。
  (37)森本淳「嘉禾吏民田家莂にみえる同姓同名に関する一考察」(『嘉禾吏民田家莂研究―長沙呉簡研究報告・第一集―』長沙呉簡研究会、二〇〇一年、所収)。
  (38)日野開三郎『唐代先進地帯の荘園』(自費出版、一九八六年)二四八~二四九頁、野中敬「魏晋戸調成立攷」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』別冊一四[哲学・史学編]、一九八七年)一九六頁。このことは、獣皮による布の代納が行われた一因である可能性もある。
  (39)走馬楼呉簡中の戸品制が(九等ではなく)「三等+等級外(=「下品之下」)」という構成であったことは、前掲註(11)張論文一九五~一九六頁、于論文一〇〇頁で指摘されている。
  (40)単純に品詞から調の定制化の度合いをはかるようなことが許されるのならば、孫呉の調は戸調制と呼べるようなものではなかったということになるが、そもそもそのような議論のしかたが有効であるとは、わたしには思えない。名詞であろうが動詞であろうが、その「調」という語によって指し示される事態の内実こそが問題なのではなかろうか。
  (41)このほか、
  □付市吏潘羜()()調()()廿三匹二尺     一‐八七二三
  なるものもあるが、これは于振波が考証している(前掲註(11)于書九三頁)とおり、関連部門が市吏を介して、調した布を売却した際のものであろう(=主語は「付」よりも前にある)。
  (42)特定の季節に冬賜布のことが集中してみえるなら、いずれか一方に特定できるのであるが、調納入簡以外の納入簡には、
  入模郷二年()()()一匹嘉禾二年()()()()()洽丘大男蘇明付庫吏殷連受

一‐七九四二

  入模郷二年()()()二匹嘉禾二年()()()()()()水用丘祭□付庫吏殷連受

一‐八二八二

  と、春期や冬期にも納められた例があり、判然としない。
  (43)渡辺信一郎「漢代の財政運営と国家的物流」(『京都府立大学学術報告』人文四一、一九八九年)一三~一五頁。
   
  【附記】本稿は、平成一九年度文部科学省科学研究費補助金(若手研究(B))「文献史料および出土文字史料よりみた漢魏交替期の国家支配と地域社会」による研究成果の一部である。
   
  (原載『立正史学』一〇三、二〇〇八年三月刊。転載に際し誤記を改めた)
   
  (編者按:本文收稿日期為2010年1月10日。)
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