嘉禾吏民田家莂「丘」再攷
作者:阿部幸信 發布時間:2010-01-25 22:15:04
(日本 中央大学文学部)
第一節 問題の所在
一九九六年に湖南省長沙市走馬楼より出土した、総数一〇万点にもおよぶ大量の三国呉の簡牘(以下「走馬楼呉簡」)(1)は、これまでほとんど明らかでなかった孫呉時代の制度・社会を探るための重要な鍵として注目されている。田余慶を組長とする長沙走馬楼三国呉簡整理組の手によってその整理が着々と進められ、目下(二〇〇三年一一月現在)小型竹簡を主たる内容とした図録本第二集の刊行がようやく伝えられたところであるが、今のところわれわれにその内容を吟味する時間が充分与えられてきたのは、「吏民田家莂」(以下「田家莂」)と呼ばれる一群の大型木簡に限られている。
田家莂はいずれも長さ五〇センチ前後の木簡で、田土額に基づき租税額を計算し、それが正しく納税されたことを確認するというのが主たる記載内容である。一例を挙げれば、
[1] 伻丘[2]縣吏[3]張喬[4]田卅町[5]凡一頃卅畝[6]其一頃九畝皆二年常限[7]其一頃七畝旱敗不收[8]畝收布六寸六分[9]定收二畝[10]畝收税米一斛二斗[11]爲米二斛四斗[12]畝收布二尺[13]其廿一畝餘力田[14]其十六畝旱敗不收[15]畝收布六寸六分[16]定收五畝[17]收米四斗五升六合[18]爲米二斛二斗五升[19]畝收布二尺[20]其米四斛六斗五
斗[21]四年十一月十七日[22]付倉吏鄭黑[23]凡爲布一匹三丈九尺一寸准入米三斛九斗六升[24]四年十一月十一日[25]付倉吏鄭黑[26]其旱畝收錢卅七[27]其熟田畝收錢七十[28]凡爲錢三千九百六十六錢入米二斛四斗八升五合[29]四年十二月廿日[30]付倉吏鄭黑[31]嘉禾五年三月十日[32]田戸經用曹史趙野張愓陳通校
四・二六二
伻丘の県吏張喬の田は三〇町で、合計で一頃三〇畝ある。その一頃九畝は、皆二年常限である。その(常限田の)一頃七畝は旱敗(乾いてだめになる)であるので、(米を)収めず、畝ごとに布六寸六分を収める。定収は二畝あり、畝ごとに税米一斛二斗を収めると、米二斛四斗になる。畝ごとに布二尺を収める。その(全体の)二一畝は餘力田で、その一六畝は旱敗であるので、(米を)収めず、畝ごとに布六寸六分を収める。定収は五畝あり、(畝ごとに)米四斗五升六合を収めると、米二斛二斗五升になる。畝ごとに布二尺を収める。その(常限田・餘力田から収めた米の合計である)米四斛六斗五斗(「升」の誤りか)は、(嘉禾)四[二三五]年一一月一七日に倉吏の鄭黒に手渡した。合計で布一匹三丈九尺一寸になり、准じて米三斛九斗六升を入れ、四年一一月一一日に倉吏の鄭黒に手渡した。その旱(田)は畝ごとに銭三七を収め、その熟田は畝ごとに銭七〇を収めると、合計で銭三九六六銭になり、准じて米二斛四斗八升五合を入れ、四年一二月二〇日の倉吏の鄭黒に手渡した。嘉禾五[二三六]年三月一〇日、田戸経用曹史の趙野・張愓・陳通がひきくらべて確認した。
といった具合である(釈文・簡番号は『嘉禾吏民田家莂』図録本(2)による)。これを整理すると、田家莂の書式は、およそ次のように示しうる。
[1]丘名[2]身分[3]姓名[4]総町数(3)[5]総田土額[6]常限田総額[7]常限旱田額(および米税率=実質ゼロ)[8]常限旱田布税率[9]常限熟田額[10]常限熟田米税率[11]常限熟田米税額[12]常限熟田布税率[13]餘力田総額[14]餘力旱田額(および米税率=実質ゼロ)[15]餘力旱田布税率[16]餘力熟田額[17]餘力熟田米税率[18]餘力熟田米税額[19]餘力熟田布税率[20]米総額[21]米納入日[22]米納入先(官職・吏の姓名)[23]布総額(4)[24]布納入日[25]布納入先[26]旱田銭税率[27]熟田銭税率[28]銭総額(5)[29]銭納入日[30]銭納入先[31]校閲日[32]校閲者(官職・姓名)(6)
[31]より判明する徴税年度に応じて、『嘉禾吏民田家莂』は田家莂を分類している。それに従えば、嘉禾四年莂が七八二、五年莂が一二六九、断簡や判読不能のため年度不明のものが九〇あり(7)、総数は二一四一にのぼっている。
従来、田家莂は納税する民戸と徴税する官府とに分有される納税証明書のごときものとして説明されてきている(8)。しかし、その記載の細部については、田家莂に特有の文言が少なくないことからさまざまな未解決の問題が山積しており、とりわけ納税者の所属を示す「丘」については、それが郷より下位に位置する(9)何らかの存在であると考えられ、地方行政制度や在地社会について論じる上での手がかりとなると目されるがゆえに、すでに多くの論者のとりあげるところとなっている。
論争の口火を切ったのは邱東聯で、邱によれば、後漢末の社会的混乱に対処するために孫呉政権が基層の社会組織を利用して設置した行政単位が丘であるという(10)。その呼称の由来としては、「小土丘」の意である「丘」が土地の区画に転化されたものとする。田家莂にみえる丘を文字通りの「おか」として解する立場をより明確に示すのは王素・宋少華・羅新で、丘は一般に高地を指すのだと述べている(11)。
これに対し、丘は本質的に里と同じであると主張するのが高敏である(12)。高は、田家莂に行政単位として里がみえず丘だけがみえること、五・三八において「上利丘」が「上利里」と誤記されていること(13)に拠りつつ、孫呉政権下の長沙郡一帯では郷里制が郷丘制に改められたのだと考える。しかしこれに対しては、「発掘簡報」(14)で紹介されている名籍・戸籍類竹簡に里名が記されているところから、里と丘を同一視すべきでないとの反論がある(15)。名籍・戸籍類竹簡と田家莂とが同時並行的に存在したという確証は今のところなく、仮に名籍・戸籍類竹簡のほうが田家莂よりも時間的に早いものであれば、むしろ高説は「丘」が「里」と誤記された理由を合理的に説明するものとして注目を浴びることになるかもしれないが、現在のところは高説を積極的に支持するに足るだけの根拠は見あたらないようである。
高とは逆に、長沙呉簡のうちにみえる丘と里とを同時期に併存した別個の区画とみるのが、關尾史郎である(16)。關尾は、名籍・戸籍上では里に付籍され、諸負担の納入に関しては現住の居住空間をもとに編成された丘によって管理される、という二通りの民衆把握の方法があったものとみている(17)が、その最大の理由は、王素・宋少華・羅新が紹介している小型竹簡中の里名一覧と田家莂にあらわれる丘名とがほとんど一致しない点である。同様に丘の名称から丘の性格を論じた小嶋茂稔は、「桐山丘」「桐下丘」「桐田丘」「桐唐丘」「桐丘」というように共通した文字を含む丘名のグループがいくつか認められ、かつその場合に共通の文字に付加される表現には「下」「上」「東」「南」など方向・方角による人為的な区画操作の痕跡を窺わせるものが少なくないとして、丘とは租税徴収のため郷主導のもと民衆を人為的に組織化したものであると結論する(18)。
以上、丘に関する代表的な諸説をみてきた。単に「丘=高地」との解釈を示すにとどまる王素らの説はとりあえず措くとして、あとの四者は丘の性格の捉えかたをそれぞれ異にするが、丘というものに対する基本的認識は、実はほとんど同じである。それは、丘とは公的な文書に記されうるような何らかの行政単位であり、それがときに徴税にかかわる場合もあったらしいという、田家莂の記述から導かれる暗黙の前提である。こうした基本認識が同じであるのに、結論が大きく異なっている根本的な原因は、丘そのものの理解のしかたの違いにではなく、後漢末から孫呉期という時代の捉えかたの相違にある。漢代の里がそのまま丘になったとする高説に従えば、後漢の滅亡と孫呉政権の成立という統治者の交替は、国家の在地社会との向き合いかたには何ら本質的な変化を引き起こさず、ただ変わったのは行政単位の呼称だけであったということになる。一方、邱・關尾・小嶋は、当時の時代状況を考慮しつつ、それまでの里をとおした民衆把握の方法を超えた新しい存在として、丘を積極的に位置づけ直そうとする。ただその場合にも、邱は後漢末の社会の混乱を前提としながら在地社会の国家支配からの自立を想定し、そうした中で社会組織を利用した民衆把握のしかたとして生まれてきたものが丘だと考えるが、關尾・小嶋は漢代以来の里制が依然として維持されながらも、徴税にあたっては実際の居住空間が考慮されるようになったために丘がおかれたと考え、その背景としては後漢の衰退による混乱状況という政治的要因よりも、村の発生・蛮地の特殊性といった社会経済上の変化や地域性の問題を、相対的に強く意識している。うち後者に属する二説を分かっているのは、国家が在地社会に対してもつ規制力の強弱をどうみるかの違いで、關尾が里と丘との併存を社会の変化や地域性という現実面からの要請に応じたいわば受動的な行政機構の改変とみるのに対し、小嶋は国家の能動性をいっそう重視して、国家主導の民衆の組織化をいうのである。
いまみたところからも明らかなように、結局のところこれまでの丘をめぐる論争というのは、丘というものの実像やそこからみえてくる社会状況に即したものではなく、あらかじめ用意された当時の時代状況に対する認識の違いを互いにぶつけ合うだけに終わっていた。つまり、従来の諸説には「丘について論じながら、丘の実態が根拠とされていない」こと、すなわち
丘というものの内在的理解の欠如という限界がつきまとっているのだと言わねばならない。ために、どの説に従うにしても、若干の躊躇を覚えざるを得ないのである。もちろん、材料が少ない場合はこうした議論の進めかたも問題解決のためのひとつの手段ではあるし、田家莂の記載内容を単なる税額計算と納税確認の羅列とみる限りにおいては、丘を内在的に理解するための方法が見いだせなかったことも事実ではあるのだが、丘の実像を窺い知るための手段は田家莂のうちにまったく残されていないと、はたして言い切れるのだろうか。
そこで注目したいのが、田家莂の主内容である税額計算と納税確認
以外の記述、より限定的にいえば、[4]の「総町数」と[5]の「総田土額」である。これらは具体的な田畑の存在形態にかかわる情報であり、そもそも田土についてこうした二様の表記がなされること自体が田家莂の一特徴でもあるのだが、このことは管見の限り未だ考察の対象とはされていない。田家莂における田土の表記方法についての整理もなく、どんな田土について書かれているのかを把握もせず、丘とは何かを外在的に追い求めようとするのは、本来ならば順序が逆である。「町数」と「畝数」の関係から出発して、丘という場における田畑の存在形態について追究することで、丘の性格の一端に触れることはできないものだろうか。そのための試みが本稿である。
第二節 「町」について
まずは、前節で引いた田家莂の記載をいま一度ご覧いただきたい。
伻丘縣吏張喬田卅
町凡一頃卅畝…(後略) 四・二六二
伻丘の県吏張喬の田は三〇町で、合計で一頃三〇畝ある。…
ここからわかるように、一般に田家莂では、単位「町」の総量を述べたのち「凡…畝」として田土の総面積が記される。もちろん必要に応じて面積の単位には「頃」「歩」も用いられるが、嘉禾四年莂で歩数が明示されるのは、実のところ四・二二五と四・三六四の二枚だけである。五年莂では歩単位の記載が普通にみられるから、両年の間に何らかの変化が起きたらしいことを窺わせる(19)が、その「変化」の内容はいまのところ明らかでない。
その一方で、
僕丘郡吏廖顥佃田二
處合十畝…(後略) 四・四二四
僕丘の郡吏廖顥の佃田は二
処で、合わせて一〇畝ある。…
というように「町」ではなく「處」の数が示されるケースも散見される。この問題については關尾史郎が検討を加えており(20)、それによれば、「處」表記をもつ莂の特徴として次の三点が挙げられる。
①「町」表記のとき田土額は「凡」で導かれるが、「處」表記のときは「合」で導かれる。
②「處」表記の莂の校閲日は、嘉禾五年三月六日に限られる(21)。
③同日校閲分の莂において、校閲者の官職は「主者史」と記されるが、それ以外の莂ではすべて「田戸曹史」(22)である。
その上で關尾は、記録にあたる吏によって田家莂の表記には若干の
ゆれが生じる余地があったのであり、「處」「合」「主者史」などは三月六日に莂を作成した吏の単なる書き癖にすぎず、「町」「處」両者に本質的な相違はないとした。この關尾の見解は、概ね正しいと認められる。「概ね」というのは、実は例外が存在するからで、
函丘男子應雔佃田二
町合十畝…(後略) 四・二九七
函丘の男子應雔の佃田は二
町で、
合わせて一〇畝ある。…
は「町」表記であるが、「合」で田土面積を導いている。これは①の例外である。また、
□□丘男子陳新佃田二
處合十畝…(中略)…嘉禾五年三月□日
田戸曹史趙野張愓陳通校 四・五五六
□□丘の男子陳新の佃田は二
処で、
合わせて一〇畝ある。…嘉禾五年三月□日、
田戸曹史の趙野・張愓・陳通がひきくらべて確認した。
という莂もある。これは校閲日が不明であるが、②を正しいとすると「三月□日」の「□」には「六」が入るはずである。すると③と矛盾する。つまり②と③とは、完全には両立しないのである。しかし、こうしたわずかな例外の存在は、むしろ「町」「處」の相違を制度的なものではなく「表記のゆれ」と捉えることの正しさを示していると考えられるから、細部に詰めるべき点があるにせよ、關尾説は是として差し支えない。よって、以下では用例の圧倒的に多い「町」で両者を一括することにする。
では、この「町」とは一体いかなる単位なのだろうか。龍崗秦簡には、
盗田二
町當遺三程者□□□□□□□
? 一二六
田二
町を少なく申告し不当に耕作したものは、田租三人分の額を納めない者(の罪)に相当し、…
一
町當遺二程者而□□□□□□□
? 一二七
一
町(を少なく申告し不当に耕作したもの)は、田租二人分の額を納めない者に相当し、…
とあり、ここでも「町」が単位として用いられている。中国文物研究所・湖北省文物考古研究所編『龍崗秦簡』(23)の注釈は、この「町」を田畝の面積を計量する単位としているが、仮に田家莂の「町」も面積の単位だとすると、町数は畝数と対応関係になければならない。しかし結論からいえば、両者の間にそうした規則的な対応関係は認めることができないのである。
下伍丘男子五孫田六町凡十二畝…(後略) 四・五
下伍丘の男子五孫の田は六町で、合計で一二畝ある。…
(一二(畝)/六(町)=二(畝) ∴一町=二畝)
五□丘男子周頎佃田二町凡十八畝…(後略) 四・一〇二
五□丘の男子周頎の佃田は二町で、合計で一八畝ある。…
(一八(畝)/二(町)=九(畝) ∴一町=九畝)
上俗丘男子朱得佃田六町凡十八畝…(後略) 五・八〇
上俗丘の男子朱得の佃田は六町で、合計で一八畝ある。…
(一八(畝)/六(町)=三(畝) ∴一町=三畝)
右の諸例よりわかるように、町数は畝数と対応しない。となると両者は同種の単位ではないことになるが、米・布・銭とも税率は畝単位で決定されているので、畝が面積の単位であることは明らかである。ゆえに、吏民田家莂にみえる「町」は面積の単位ではない。
一方、『説文』は「町」について、
町、田踐處曰町、从田丁聲。
町、田の践む処を町と曰ひ、田に从ひ丁の声。
といっている。「田の践む処」だというのだから、畦のことであろう。段注は、
玉裁按、此踐字疑淺人所增。廣韵靑韵注曰田處、…田處者、謂人所田之處。…
玉裁按ずるに、此の「践」字 疑ふらくは浅人の増せる所ならむ。『広韵』青韵注「田処なり」と曰ひ、…田処は、人の田づくるの処を謂ふ。…
とし、「踐」を衍字とみて「町」は「田處」すなわち耕地のことだと理解しているが、逆にこの「田の践む処」という箇所に意味を見出すのが竹添井井である。竹添は『左伝』襄公二五年の「原防を町す」の「町」について、
町者、田之區域也。言治其畔埒、以區分之。説文、田踐處曰町。廣韻、田區畔埒也。…又隴也、區也。
町は、田の区域なり。其の畔埒を治め、以て之を区分するを言ふ。『説文』に、「田の践む処を町と曰ふ」と。『廣韻』に、「田の畔埒を區するなり」と。…又た「隴」なり、「区」なり。
という(『左氏会箋』)。竹添の考える「町」とは、畦によって区切られた田地の区画である。關尾史郎は、「後漢建寧四[一七一]年九月雒陽左駿厩官大奴孫成買田券」に「買所名有廣徳亭部羅陌田一
町」とあるところから「町」を「地段の量詞」とし、「後漢熹平五[一七六]年七月樂成里劉元臺買地券」に「買代夷里塚地一
處」とあることから「處」も同様の単位だとする(24)が、この見解は竹添のそれと重なる。
こうした田地の区画の形状については、『左伝』の当該箇所に付された杜注が参考になる。それによれば、
隄防閒地、不得方正如井田、別爲小頃町。
隄防の間地、方 正しくして井田の如くするを得ざれば、別に小頃の町を為る。
とあり、正方形でなく井田を設けられないような土地に作られる区画として「町」の語が用いられている。杜預が田家莂のほぼ同時代人であることを考慮すれば、彼の解釈を田家莂を理解するための参考とすることは許されよう。
以上のように考えると、田家莂にみえる「町」とは、「畦によって区切られた、ときに不定形の、田地の区画」だということになる。つまり「一町」というのは「田畑一枚」くらいの意味なのであって、それは「一町」が「
一処」と同義だとする先の仮定とも一致する。言い換えれば、「町」とは田畑の枚数を数える数詞なのである。
しかるに、上述のごとく、田家莂には「町」によって示された田畑の枚数と併せて、田土の総面積が記載されている。ということはつまり、その二つのデータを用いることによって、それぞれの田家莂に記された一人びとりの人物につき、その耕作する田畑が一枚あたりおよそどれくらいの面積であったのかを算出することが可能だということになる。この地道な計算を積み重ねることで、田家莂にみえるそれぞれの丘に広がる田園風景の大まかなイメージをつかむことはできないだろうか。試みまでに、節を改めた上で、右の予想を実行に移してみよう。
第三節 一町あたり畝数の検討
これから行う作業は、具体的にいうと、個々の田家莂に示された畝数を町数で除するものである。その際、以下の四つの原則に従った。
①『嘉禾吏民田家莂』で年度不明とされているもののうち、記載上の特徴によって年度が判明するもの(25)については、当該年度分に繰り入れて計算することとする。
②田家莂には、しばしば記載ミス・計算ミスが存在する。いま行おうとする作業に関連するものでは、常限田と餘力田の合計が総面積と合わないとか、税額から逆算した田土額ともともと記載されているそれとが一致しなかったりするとかいったケースがある。こうした場合、検算の過程で錯誤の理由が合理的かつ容易に説明できるものについては、図版も参考にしながらすべて訂正し、以下の作業においては訂正後の数値を利用した。が、錯誤の理由が不明確で、図版も判読が困難であり訂正不能なものについては、手をつけずそのままにした。ただし実際には、そうした例はほんの一部にすぎない。
③田土額の部分が欠損して判読できない場合、税額から逆算が可能であれば、田土額を求めて検討対象に加えた。
④町数・畝数のいずれか一方しか判明しない莂は、検討対象から除外した。
本来ならば、個々の莂について行った訂正ならびに計算結果を逐一示さねばならないのであるが、いましがた述べたような条件をつけてもサンプル数は一七〇〇を超えるのであって、限られた紙幅の中で作業の全貌を示すことは不可能である。よって本稿においては、個々の莂の記述の細部に立ち入ることは避け、結果として得られたデータに基づいて、要点だけを述べるにとどめることをお許し願いたい(26)。また、嘉禾四年莂と五年莂とでは記載対象がほとんど重ならないことに鑑みて、データの分析は基本的に年度ごとに分けて行うこととする。
(一)嘉禾四年莂について
嘉禾四年莂(サンプル数六一九)をもとに統計をとった結果、以下のような数値が得られた。
①町数の平均…一〇・五町
②畝数の平均…三八・六畝
③一町あたり畝数の平均…六・一四畝(=約三〇・六アール)(27)
一見してわかるように、③に①を乗じても②とは一致しない。これは、莂によって一町あたりの畝数に相当の偏りがあることによる。そのばらつきを可視的に確認するため、莂ごとの一町あたり畝数を示したのが【グラフ1】で、縦軸が一町あたり畝数、横軸がサンプルの番号(28)にあたる。具体的な数値はグラフではわかりにくいが、最小で〇・七畝(四・一四四)、最大で四五・〇畝(四・五七四)と、ばらつきは相当に甚だしい。逆に言うと、ひとくちに「町」といっても内容にはこれだけの違いがあるのであるから、「町」が田地の数詞であることがこのことからも確認できるといえよう。またグラフを見ると、平均値の六・一四畝はばらつきの中央ではなく、点の多くは平均値よりも下に集まっているように見受けられる。よって、ばらつきの中央を知るためにメジアン(中央値)を求めると、五・〇畝となった(29)。
以上から四年莂全体の大まかな傾向を知ることができるが、これはあくまでも全体の統計であるから、地域差は顧慮されていない。それでは、丘という存在に着目して、丘ごとにデータをまとめ直すと、どのようなことがわかるであろうか。
サンプル数が少なすぎると意味をなさないので、莂が六枚(四年莂全体の一パーセント)以上ある丘に限って整理した結果が【表1】である。うち「占有率」とは、「一町あたり畝数がその年の莂全体のメジアンを下回る莂がその丘の莂全体に占める割合」を指す。四年莂でいえば、全体の一町あたり畝数のメジアンは先述のごとく五・〇畝であるから、一町あたり畝数がその五・〇畝を下回る莂がその丘に属する莂のなかでどれくらいの割合あるかが、この占有率によって示されるわけである。従って、占有率が高い丘には相対的にみて狭い田畑が、占有率が低い丘には広い田畑が、それぞれ多くみられるということになる。
その上で【表1】をみると、占有率が丘ごとに著しく偏っていることが了解されるであろう。占有率が二五・九(緒中丘)~六五・二(石下丘)の間の値をもつ丘は存在せず、どの丘についても全体の七割程度かそれ以上は、一町あたり畝数が四年莂全体のメジアンを上回るもしくは下回る莂が占めているのである。
ただ言葉で説明するだけではわかりにくいので、例を挙げて確認しよう。例えば下伍丘には、町数・畝数が判明する分だけで二三枚の莂がある(【表2】)。うち一町あたり畝数が四年莂のメジアン五・〇畝を越えているのは、ゴシック体で示した四・九、四・一二、四・二九の三つだけで、下伍丘全体の平均は三・一二畝にすぎない。このように田畑一枚あたりの面積が狭い丘としては、ほかに夫丘・中唫丘・平攴丘・石下丘・利丘・何丘・伻丘・頃丘・區丘・䔛丘・劉里丘が挙げられる。これらを【表1】では斜体にして示した。
逆に公田丘(【表3】)では、総面積の平均こそ一九・〇畝と小さいものの、一町あたり畝数の平均は九・七六畝にも達する。この丘に属する八名のうち、四年莂のメジアンを下回るものはゴシック体の四・一三九(三・五畝)のみに限られる。このように田畑一枚が広い丘には、上㚘丘・己酉丘・小赤丘・五唐丘・平
丘・東㚘丘・桐唐丘・郭渚丘・梨下丘・湛上丘・湛龍丘・緒中丘・樸丘がある。これらは【表1】においてゴシック体で示してある。
こうした占有率の偏りは興味深い現象で、まさに田畑の分布状況の差異を窺い知るための格好の材料であると考えられるが、それについての議論はひとまず措き、五年莂の検討結果について先にまとめておくことにしよう。
(二)嘉禾五年莂について
嘉禾五年莂(サンプル数一〇八三)からは、左のような結果がもたらされる。
①町数の平均…一二・四町
②畝数の平均…二八・七畝
③一町あたり畝数の平均…二・八六畝(=約一四・二アール)
一町あたり畝数のメジアンは二・五畝で、四年莂の半分にすぎない(30)。
【表4】は、四年莂と同様に六枚以上(31)の莂がある丘についてデータの整理を行ったものであるが、四年莂ではみられなかったような占有率の偏りが小さい丘が存在している。とはいえ、占有率の高い(六〇パーセントより上の)丘と低い(四〇パーセント未満の)丘とがそれぞれ全体の四割を占めるに至っている。五年莂においても一町あたり畝数はは丘ごとに偏っているとみるのが妥当であろう。丘名を列記すると、
A・田畑一枚が相対的に狭い丘
下伍丘・夫丘・平攴丘・平陽丘・石下丘・伍社丘・利丘・松田丘・杷丘・於上丘・函丘・俠丘・栗丘・租下丘・區丘・淦丘・寇丘・新成丘・僕丘・劉里丘・潰丘・鶮丘
B・田畑一枚が相対的に広い丘
三州丘・下和丘・下俗丘・上和丘・上𦭰丘・上俗丘・平樂丘・弦丘・南彊丘・𦭰丘・度丘・逢唐丘・常略丘・湖田丘・楊
丘・夢丘・廉丘・撈丘・暹丘・彈
丘・龍丘・㵱丘
C・田畑の面積に偏りがないか、あっても偏りが小さい丘
伻丘・旱丘・里中丘・何丘・武龍丘・林
丘・桐丘・略丘・唫丘・楮下丘・温丘・盡丘
となる。
占有率の偏りが四年莂のみならず五年莂においても認められるということになると、その意味するところがいよいよ重要な問題となってくる。次節では、それについて考察してゆく。
第四節 丘ごとの開発状況からみた丘の性格
前節の検討結果から得られた結論は、丘ごとに狭い田畑あるいは広い田畑が集中して存在していたということであった。
きわめて一般的に言って、ある一定の地域における田畑一枚あたりの面積が大きいとき、その地域は相対的に広い耕地が得やすい地形のもとにあるとみることができる。逆に田畑一枚あたりの面積が小さい場合、その地域は地形・地質的に入り組んでいるために土地の利用方法が限定され、耕地を一カ所に広くとることができない場所だと推測される。
この一般論が当てはまるかどうかを確認するため、丘ごとの町数を比較してみよう。【表1】【表4】をみると、占有率の高い丘は平均町数が多く、低い丘は少ないことを看取しうるが、これを具体的に数字にすると、四年莂において占有率が高い丘の平均町数は一九・七であるのに対し、低い丘では四・九しかなく、五年莂でも高い丘は一五・一に達するが、低い丘では八・六にとどまった。このことから、田畑一枚あたりの面積が小さい丘では町数が多くなる、つまり一戸が耕作する田畑が細分化ないし散在することが了解される。
このように丘ごとの地形の傾向にまで検討が及んではじめて、長沙一帯の地形や丘名を考慮することが意味をもってくるだろう。まずいえることは、田家莂に記された地域には王素らの説からイメージされるほど丘陵地がまんべんなく存在しているわけではなく、平坦な土地も広範に存在しているらしいという点である。というのは、田畑が広い丘と狭い丘とが併存していることから、すべての丘が丘陵に位置していたわけではないことが推しはかれるからである。丘の名称にもそのことは表れており、田畑の広い丘のうちには、郭渚丘・湛上丘・湛龍丘・湖田丘など「水ぎわを囲った」「(水を)湛えた」「湖の田」といった名称が存在している(32)。このことからも、低湿な土地に一枚あたりの面積が比較的広い田畑が営まれていたことが想像されよう。のみならず、そうした丘は田家莂の中に比較的高い割合で出現するから、低湿な(すべてがそうであるとは言わぬまでも、とにかく平坦な)土地にも耕地が広がっていたという仮説は、それなりに蓋然性が高いものとみなくてはならない(33)。
その一方で、狭い耕地が散在する丘も、同じくらい高い比率で出現している。ここでいう耕地の散在とは、全部を平均してしまうとそれほど極端な数字にはならないが、甚だしいものでは九〇枚(四・四一四)とか一三〇枚(五・三〇九)にも達するほどの、顕著な分散化が認められる。一町あたり畝数も一畝前後ないしそれ以下の事例はかなり多く、最小では実に〇・二一畝(五・七九九)にもなる。こうなると、それが平坦地であるとはとても考えられず、棚田とみるのがもっとも自然であろう(34)。そうした丘がしばしば出現することは、当時、傾斜地の開発もそれなりに進展していたことの表れであるとみられる。
さて、これも一般論であるが、耕地をある程度広くとりやすい相対的に低い土地(といっても平野部ではなく、水の得やすい谷口や山麓部・小湖沼などではあろうが)の開発のほうが基本的には先行し、傾斜地の開発は相対的に遅れてはじまるはずである。とすると、田畑が広い丘というのは古くから開けた土地、狭い丘というのはあとから開かれた土地ということになるだろう。田畑の狭い丘に「新成丘」などという名称が存在するのも、傾斜地のほうが開発が遅れていることと関係しているように思われるが、それを逆に言えば、広い田畑をもつ丘はより古くから存在し、その名称も歴史的に古いものであると考えられる。
そのことを示すのが、丘の名づけの方法である。第一節で述べたとおり、小嶋茂稔は丘の名称の人為性を問題とした際に「同じ文字をその名のうちにもつ丘のグループ」の存在を指摘したが、それが小嶋の解釈するように既存の地域を人為的に再区分したものだとすれば、同じ文字をもつ丘のグループは、相対的にみて古く開発が進んだ、すなわち田畑の広いほうにより多く出現するはずである。そして実際、前節で列記した丘の名称を通観すると、そうした傾向が認められる。四年莂では[上㚘丘・東㚘丘][湛上丘・湛龍丘]、五年莂では[下和丘・上和丘][下俗丘・上俗丘][𦭰丘・上𦭰丘][楊
丘・彈
丘]が同じ文字をもつ丘のグループとして挙げられるが、それは田畑の広い丘と狭い丘にまたがって出現することはないし、のみならずそのすべてが、田畑の広い丘なのである。同じ文字をもつ丘のグループが地形的に類似するということは、一方では丘の設置にあたって既存の地名に方向・方角を付け加える形で地域の再区分がなされたという小嶋の仮説を裏づけるし、それらがいずれも田畑の広い丘であるということは、低地から先に耕地が開けていったはずだという先の仮定の傍証にもなるだろう。
同じことを、さらに異なった角度からみてみよう。關尾史郎が丘の性格を検討するにあたって分析対象とした「里名と丘名の一致・不一致」が、その手がかりとなる。里制が漢代の制度であったことを勘案すると、小型竹簡に里名としてあらわれるものも、比較的古くから開けていた土地の地名であろう。しかるに、田家莂の丘名と小型竹簡の里名とが共通する例として關尾が挙げる一〇例(東丘・盡丘・度丘・東㚘丘・湛龍丘・梨下丘・平樂丘・平陽丘・五唐丘・劉里丘)中、サンプル数不足の東丘・盡丘・五唐丘を除いた残り七つの丘のうち五つ(度丘・東㚘丘・湛龍丘・梨下丘・平樂丘)までが、田畑の広い丘である。さらに、同じ文字をもつ丘のグループの地形条件は類似するという先の結論からいけば、五唐丘は逢唐丘と同じく田畑の広い丘であると推定できるから、これも加えることができよう。してみると、平陽丘と劉里丘だけが田畑の狭い丘に属してはいるものの、全体的傾向としては、田畑が広い丘の名称のほうが里名と対応しやすいといって差し支えない。ということは、田畑の広い丘のほうが古い地名とより親和性が高いことを意味する。
以上述べた丘の名称と開発状況の関係についてまとめれば、古くから人が集住して耕地が開かれ里がおかれていたような地域は、そこに何らかの理由で丘がおかれるようになった際、古くからある里名に対応する丘名がつけられたが、そうではない新たに開墾されたような土地には、里名と必ずしも対応しない人為的な名前がつけられた可能性があることになる。右はあくまでも憶測だが、仮にこれが成り立つとすれば、里名と丘名の対応・非対応の問題、ならびに人為的な名称の丘が多数みえる問題は、里と丘とを一律に結びつけたり切り離したり、丘名の作為性に注目したりするだけでは解決せず、開発状況と関連させて理解したほうが解釈が容易になるらしいことが判明する。
すると、あるいはこういう考えかたもあるかも知れない。古くから開けた地域は、それが複数の丘に再区分されたにせよ、人為性が介在するのはその区分についてだけであって、そこに住む人々や彼らが拠るところの社会組織に対しては、それほどの干渉はなかったのではないかと。そこで考えておきたいのが、課税面で優遇される復民および士(35)についてである。
復民・士はともに四年莂のみにみえ、前者は己酉丘に、後者は樸丘に限って現れることが知られている。
己酉丘復民梅組佃田三町凡卌一畝皆二年常限其卅六畝旱田畝收布六寸六分定收五畝
畝收米五斗八升六合爲米三斛七升六合畝收布二尺其米三斛七升六合四年十二月□日付倉吏李金凡爲布三丈三尺七寸六分五年二月二日付庫吏潘有其旱田畝錢卅七其熟田畝收錢七十凡爲錢一千三百九十二錢五年二月廿日付庫吏番有嘉禾五年三月十日田戸曹史趙野張愓陳通校 四・四五
己酉丘の復民梅組の佃田は三町で、合計で四一畝あり、皆二年常限である。その三六畝は旱田であるので、畝ごとに布六寸六分を収める。定収は五畝あり、
畝ごとに米五斗八升六合を収めると、米三斛七升六合になる。畝ごとに布二尺を収める。その米三斛七升六合は、四年一二月□日に倉吏の李金に手渡した。合計で布三丈三尺七寸六分になり、五年二月二日に庫吏の潘有に手渡した。その旱田は畝ごとに銭三七を収め、その熟田は畝ごとに銭七〇を収める。合計で銭一三九二銭になり、五年二月二〇日に庫吏の番有に手渡した。嘉禾五年三月一〇日、田戸曹史の趙野・張愓・陳通がひきくらべて確認した。
とあるように、復民の常限定収田への米課税率は一畝あたり五斗八升六合であり、一般の民が一斛二斗であるのに比べると、半分以下に軽減されている。士については、
樸丘士李安佃田十町凡五十三畝皆二年常限其五畝熟田
依書不收錢布卌八畝旱田畝收布六寸六分凡爲布三丈一尺准入米一斛五斗六升五年三月七日付倉吏番慮旱田畝收錢卅七凡爲錢一千七百七十六錢准入米一斛一斗□升五年正月□日付倉吏番慮嘉禾五年三月七日田戸經用曹史張愓趙野陳通校 四・四九一
樸丘の士李安の佃田は一〇町で、合計で五三畝あり、皆二年常限である。その五畝は熟田であるが、
書に依って(米・)
銭・
布を収めない。四八畝は旱田であるので、畝ごとに布六寸六分を収める。合計で布三丈一尺になり、准じて米一斛五斗六升を入れ、五年三月七日に倉吏の番慮に手渡した。旱田は畝ごとに銭三七を収め、合計で銭一七七六銭になり、准じて米一斛一斗□升を入れ、五年正月□日に倉吏の番慮に手渡した。嘉禾五年三月七日、田戸経用曹史の張愓・趙野・陳通がひきくらべて確認した。
とあるように、熟田への課税が免除されている。これらの身分がいかなるもので、なぜこうした優遇措置がとられたのかについては、現時点では検討材料が不充分であって定かではないが、少なくとも士が国家的な身分であったことは「
書に依りて銭・布を収めず」という表現から窺えるし、復民が限定的に現れる(のみならず、復民以外の身分が出現しない)己酉丘の丘名は孫権が皇帝に即位した黄龍元[二二九]年の干支に由来すると目されているから(36)、祝祭的な意味をもって命名され、その民に恩典が与えられたものである可能性がきわめて高い。
そこで【表1】をみると、彼らのいた己酉丘・樸丘は占有率が著しく低く、一町あたり畝数が大きい莂が多数を占めていたことが判明する(37)。通常、町数が少なく田畑一枚が広いほうが耕作は容易であるから、彼らは税率面だけでなく、耕作にあたっても有利な立場におかれていたものとみられる。ただし注意したいのは、満田剛の作成にかかる表によると、己酉丘・樸丘においては被記載者の姓がばらばらであり(38)、これらの丘の内部に強固な族的結合をもった血縁集団は存在しなかったものと考えられることである。丘というものがすべて自然集落なのだとすれば、そうした集団がある程度認められてしかるべきであるが、少なくともこれらの丘についてはそうではない。つまり、彼らはもともと属していた丘ごと優遇の対象となったのではなくして、何らかの理由でそれらの丘に移住(ないしは占有する田土を変更)せしめられ、耕作に有利な場所を国家権力によってとくに
与えられていたものと考えられるのである(39)。ここからみる限りにおいて、丘編成の人為性はその名づけのレベルにとどまらず、場合によっては在地社会内部への干渉をも伴っていたものとみられよう。
そもそも、田家莂にみえる丘が生活空間であるにせよ、居住地とは離れて存在する田地の集合であるにせよ、いずれにしてもそれを国家権力が人為的に再区分するということは、孫呉政権がこの地の社会にそれなりの規制力を有していたことを意味する。しかもそれが社会内部にまで及ぶものであったのだとすると、その規制力は相当大きなものであったはずである。血縁集団の解体や開墾奨励などを目的としてその規制力が発揮された結果、民の移動が広範に行われていたものとすれば、四年莂と五年莂で別の丘に同一人物が現れること(40)の説明は容易につくようになるし、同じ丘の内部で姓がまったくばらばらなケースが存在することも充分納得がゆく。が、そうした強力な支配を孫呉政権がその統治下にあるすべての地域に一律に及ぼし得たかということになると、やはり否定的にならざるを得まい。この時点でわれわれは、田家莂という文書の性格に改めて思いを致さねばならないのであるが、すでに紙幅が尽きつつある。他日を期すことにしよう。
ともあれ、丘の開発状況の検討をとおして、丘が国家によって人為的に設けられた行政組織であり、その設置にあたっては、ときに在地社会の内部にまで立ち入った再編成がなされる場合のあったことが確認された。丘は自然集落そのものではなく自治組織でもない、これは現時点でも許される結論であると考える。
結言
本稿で得られた結論は、以下のように集約できる。
①田家莂にみえる「町」という単位は、田畑の数詞である。
②個々の莂について、町数で畝数を除することにより田畑一枚あたりの面積を求めると、著しいばらつきがみられた。
③田畑一枚あたりの面積は、丘ごとに著しく偏る傾向にある。
④田畑一枚あたりの面積が広い丘のうちには、その名称が既存の里名と高い関連性を有し、人為的再編成の痕跡を示すものが少なくない。
⑤田畑一枚あたりの面積が広い丘の多くは古くから開けた平坦な低地で、狭い丘は相対的に遅れて開けた傾斜地が多いものと考えられる。
⑥丘は人為的に設けられた行政組織であり、その設置にあたっては、在地社会内部への干渉が行われる場合もあった。よって、丘は自然集落でも自治組織でもない。
しかし、これだけ蕪辞を弄しながら、実はもっとも重大な問題が未解決であることを、最後に告白せねばなるまい。それは、本稿では丘を「行政組織」としたが、それがいかなる行政組織であるのかが示されていないことである。その言い訳を兼ねつつ、今後の課題を示しおくことにする。
丘を単位に徴税が行われていることから、丘が徴税単位という側面を有していたことは疑いないのであるが、だからといって丘が本来的に徴税単位として設けられたものであるとはいえまい。その点で、丘編成の人為性について見解を同じくしながらも、小嶋説に全面的に左袒することには躊躇を覚えるのであるが、この点については田家莂によって徴収されている税が孫呉の税役体系の奈辺に位置するのかが判明しなければ断定的なことは何も言えないので、目下のところ検討を放棄するしかない。よって、里と丘の同一性・非同一性について結論を急ぐことも差し控えたいと思う。ただ、そうした検討の前提として、丘というもののイメージをより具体的な形にしておくことについては、一定程度成功したものと考えている。
その他、孫呉政権が在地社会に対してもった規制力の程度であるとか、四年莂と五年莂の内容の相違の問題――これは両年の間にどのように開発が進展したかということともかかわって、田家莂の文書的性格に対する理解の根本にまで影響する論点である――など、関連する課題はとても挙げ尽くせないが、その解決に向けて従来と異なった新しい分析視覚があることに注意を喚起できたとしたら、それだけも小論の目的は達成されたといえよう。長沙呉簡研究のさらなる進展を祈りつつ擱筆する。
【表1】
|
町数平均 |
畝数平均 |
畝数/町数 |
占有率(%) |
下伍丘 |
11.5 |
35.0 |
3.12 |
87.0 |
上㚘丘 |
6.1 |
38.6 |
6.99 |
12.5 |
己酉丘 |
3.0 |
37.5 |
14.38 |
9.1 |
小赤丘 |
5.5 |
45.2 |
9.11 |
8.7 |
夫丘 |
25.5 |
51.3 |
3.53 |
84.6 |
五唐丘 |
5.7 |
26.8 |
7.74 |
21.1 |
中唫丘 |
14.9 |
48.9 |
3.42 |
82.4 |
公田丘 |
2.1 |
19.0 |
9.76 |
12.5 |
平攴丘 |
7.1 |
23.3 |
3.93 |
84.6 |
平丘 |
4.2 |
33.7 |
10.14 |
13.0 |
石下丘 |
9.9 |
41.1 |
6.11 |
65.2 |
利丘 |
21.2 |
59.1 |
3.47 |
81.0 |
何丘 |
23.4 |
63.6 |
3.12 |
77.8 |
伻丘 |
10.7 |
41.7 |
5.09 |
70.0 |
東㚘丘 |
4.6 |
30.7 |
6.87 |
14.3 |
桐唐丘 |
2.6 |
19.3 |
7.33 |
25.0 |
郭渚丘 |
5.0 |
30.6 |
7.55 |
9.4 |
頃丘 |
15.1 |
32.8 |
2.94 |
100.0 |
區丘 |
23.6 |
51.3 |
2.92 |
87.5 |
梨下丘 |
3.2 |
31.6 |
11.46 |
0.0 |
湛上丘 |
7.6 |
60.7 |
8.09 |
14.3 |
湛龍丘 |
4.6 |
32.1 |
7.94 |
20.0 |
䔛丘 |
45.4 |
84.5 |
2.03 |
100.0 |
緒中丘 |
4.3 |
28.9 |
7.26 |
25.9 |
劉里丘 |
28.7 |
58.6 |
3.71 |
89.5 |
樸丘 |
9.9 |
68.0 |
11.60 |
0.0 |
4年莂全体* |
6.0 |
30.0 |
5.00 |
49.4 |
*平均値ではなくメジアンを示す。 |
【表2】
簡番号 |
丘名 |
身分 |
名前 |
町数 |
総面積(畝) |
畝数/町数 |
備考 |
4・5 |
下伍丘 |
男子 |
五孫 |
6 |
12.0 |
2.00 |
|
4・6 |
下伍丘 |
男子 |
五常 |
1 |
3.0 |
3.00 |
|
4・7 |
下伍丘 |
男子 |
五將 |
7 |
30.0 |
4.29 |
|
4・8 |
下伍丘 |
男子 |
文□ |
2 |
8.0 |
4.00 |
|
4・9 |
下伍丘 |
郡吏 |
周柏 |
32 |
164.0 |
5.13 |
|
4・10 |
下伍丘 |
男子 |
胡純 |
8 |
21.0 |
2.63 |
|
4・12 |
下伍丘 |
男子 |
胡諸 |
12 |
61.0 |
5.08 |
|
4・14 |
下伍丘 |
男子 |
勇羊 |
12 |
24.0 |
2.00 |
|
4・15 |
下伍丘 |
男子 |
勇恪 |
2 |
8.0 |
4.00 |
|
4・16 |
下伍丘 |
郡吏 |
逢杲 |
12 |
20.0 |
1.67 |
|
4・17 |
下伍丘 |
男子 |
逢陵 |
10 |
34.0 |
3.40 |
|
4・18 |
下伍丘 |
男子 |
啓叙 |
16 |
30.0 |
1.88 |
|
4・19 |
下伍丘 |
軍吏 |
黄元 |
10 |
21.0 |
2.10 |
|
4・20 |
下伍丘 |
州卒 |
區張 |
20 |
51.0 |
2.55 |
|
4・21 |
下伍丘 |
縣吏 |
張愓 |
25 |
87.0 |
3.48 |
総面積、原文は57畝 |
4・22 |
下伍丘 |
男子 |
張設 |
3 |
14.0 |
4.67 |
|
4・23 |
下伍丘 |
男子 |
彭嚢 |
10 |
15.0 |
1.50 |
|
4・24 |
下伍丘 |
郡吏 |
廖裕 |
20 |
46.0 |
2.30 |
|
4・25 |
下伍丘 |
男子 |
蔡德 |
11 |
22.0 |
2.00 |
|
4・26 |
下伍丘 |
(不明) |
蔡嬰 |
12 |
38.0 |
3.17 |
|
4・27 |
下伍丘 |
男子 |
鄧角 |
21 |
67.0 |
3.19 |
|
4・28 |
下伍丘 |
州吏 |
厳追 |
10 |
10.0 |
1.00 |
|
4・29 |
下伍丘 |
男子 |
謝黄 |
3 |
20.0 |
6.67 |
|
平均値 |
|
11.5 |
35.0 |
3.12 |
|
占有率 |
87.0 |
|
|
|
|
【表3】
簡番号 |
丘名 |
身分 |
名前 |
町数 |
総面積(畝) |
面積/町数 |
4・131 |
公田丘 |
男子 |
文碩 |
1 |
10.0 |
10.00 |
4・133 |
公田丘 |
男子 |
利高 |
2 |
19.0 |
9.50 |
4・134 |
公田丘 |
男子 |
胡罷 |
1 |
15.0 |
15.00 |
4・135 |
公田丘 |
大女 |
唐妾 |
1 |
12.0 |
12.00 |
4・136 |
公田丘 |
男子 |
孫職 |
4 |
29.0 |
7.25 |
4・137 |
公田丘 |
男子 |
張如 |
1 |
11.0 |
11.00 |
4・138 |
公田丘 |
男子 |
番□ |
5 |
49.0 |
9.80 |
4・139 |
公田丘 |
男子 |
謝□ |
2 |
7.0 |
3.50 |
平均値 |
|
2.1 |
19.0 |
9.76 |
占有率 |
12.5 |
|
|
|
【表4】
|
町数平均 |
畝数平均 |
畝数/町数 |
占有率(%) |
三州丘 |
6.1 |
22.7 |
4.08 |
0.0 |
下伍丘 |
10.1 |
20.3 |
2.01 |
75.0 |
下和丘 |
9.5 |
38.2 |
4.19 |
16.7 |
下俗丘 |
9.8 |
28.5 |
2.77 |
36.4 |
上和丘 |
11.0 |
32.6 |
3.08 |
37.5 |
上𦭰丘 |
7.4 |
23.8 |
3.58 |
31.6 |
上俗丘 |
8.3 |
33.3 |
3.88 |
10.0 |
夫丘 |
22.4 |
32.5 |
1.65 |
100.0 |
平攴丘 |
10.3 |
22.8 |
2.46 |
66.7 |
平陽丘 |
7.9 |
13.8 |
1.77 |
100.0 |
平樂丘 |
7.1 |
27.8 |
4.49 |
7.3 |
石下丘 |
10.5 |
21.2 |
2.22 |
72.3 |
伍社丘 |
17.7 |
31.8 |
1.91 |
90.0 |
伻丘 |
7.8 |
22.2 |
2.73 |
53.8 |
旱丘 |
11.4 |
27.8 |
3.35 |
50.0 |
里中丘 |
3.0 |
8.7 |
3.69 |
44.4 |
利丘 |
29.5 |
46.1 |
1.67 |
87.5 |
何丘 |
15.4 |
33.3 |
2.79 |
44.4 |
武龍丘 |
16.6 |
41.4 |
2.48 |
57.1 |
林丘 |
13.4 |
37.2 |
3.03 |
40.7 |
松田丘 |
10.3 |
22.7 |
2.22 |
65.4 |
杷丘 |
14.8 |
23.6 |
1.80 |
91.7 |
於上丘 |
10.9 |
22.1 |
2.14 |
100.0 |
弦丘 |
6.2 |
22.0 |
3.86 |
2.4 |
函丘 |
12.0 |
28.0 |
2.28 |
75.0 |
南彊丘 |
4.0 |
16.7 |
3.74 |
36.4 |
𦭰丘 |
10.6 |
30.4 |
2.78 |
35.7 |
俠丘 |
11.9 |
23.0 |
1.82 |
77.8 |
度丘 |
12.0 |
33.3 |
2.75 |
32.0 |
桐丘 |
10.7 |
26.8 |
2.56 |
50.0 |
栗丘 |
16.7 |
26.3 |
1.77 |
90.0 |
租下丘 |
10.4 |
22.2 |
1.83 |
88.9 |
逢唐丘 |
5.9 |
21.4 |
4.06 |
0.0 |
區丘 |
15.9 |
33.0 |
2.18 |
75.0 |
常略丘 |
14.9 |
32.2 |
3.61 |
36.4 |
略丘 |
7.3 |
26.2 |
2.86 |
42.9 |
唫丘 |
14.2 |
36.5 |
2.47 |
50.0 |
淦丘 |
15.1 |
22.7 |
1.45 |
90.0 |
寇丘 |
5.8 |
14.9 |
2.73 |
77.8 |
楮下丘 |
11.9 |
34.9 |
3.27 |
44.4 |
湖田丘 |
7.9 |
25.8 |
3.58 |
27.3 |
温丘 |
6.3 |
15.0 |
2.40 |
57.9 |
楊丘 |
5.8 |
24.5 |
3.93 |
20.0 |
夢丘 |
4.8 |
16.2 |
3.88 |
10.0 |
新成丘 |
27.0 |
47.6 |
1.65 |
85.7 |
廉丘 |
13.5 |
38.6 |
2.89 |
28.6 |
僕丘 |
13.6 |
25.2 |
2.70 |
66.7 |
尽丘 |
10.4 |
26.2 |
2.49 |
60.0 |
撈丘 |
9.9 |
21.9 |
2.71 |
10.0 |
暹丘 |
10.2 |
28.6 |
2.76 |
33.3 |
劉里丘 |
27.9 |
36.6 |
1.81 |
88.9 |
潰丘 |
20.9 |
41.4 |
1.78 |
87.5 |
彈丘 |
5.7 |
18.5 |
3.43 |
10.5 |
龍丘 |
11.8 |
36.4 |
3.05 |
30.8 |
㵱丘 |
6.2 |
19.7 |
3.75 |
38.5 |
鶮丘 |
10.0 |
29.2 |
2.56 |
63.6 |
5年莂全体* |
8.0 |
21.5 |
2.50 |
48.7 |
【表5】
|
4年 |
5年 |
変動率 |
町数 |
総面積(畝) |
面積/町数 |
町数 |
総面積(畝) |
面積/町数 |
下伍丘 |
10.0 |
22.0 |
3.00 |
10.5 |
21.3 |
1.91 |
-36.3 |
夫丘 |
30.0 |
50.0 |
2.00 |
10.0 |
20.0 |
1.80 |
-10.0 |
平攴丘 |
6.0 |
16.0 |
2.62 |
10.0 |
24.1 |
2.31 |
-11.8 |
石下丘 |
7.0 |
34.0 |
3.95 |
9.0 |
17.6 |
1.99 |
-49.5 |
利丘 |
19.0 |
60.0 |
3.20 |
17.5 |
26.5 |
1.59 |
-50.4 |
何丘 |
20.0 |
50.0 |
2.52 |
10.0 |
25.0 |
2.50 |
-0.9 |
區丘 |
20.0 |
45.0 |
2.23 |
12.0 |
24.0 |
2.06 |
-7.5 |
劉里丘 |
25.0 |
59.0 |
2.22 |
20.5 |
25.5 |
1.08 |
-51.3 |
註
(1)走馬楼呉簡の概要については、長沙市文物工作隊・長沙市文物考古研究所「長沙走馬楼J22発掘簡報」(『文物』一九九九‐五)および宋少華・何旭紅「長沙走馬楼二十二号井発掘報告」(長沙市文物考古研究所・中国文物研究所・北京大学歴史学系 走馬楼簡牘整理組編著『長沙走馬楼三国呉簡・嘉禾吏民田家莂』文物出版社、一九九九年、上巻、所収)に詳らかである。
(2)前掲註(1)。
(3)「佃田…町」とある場合と「田…町」とある場合とがあるが、両者に区別はないだろうと考えられている。拙稿「長沙走馬楼呉簡所見田種初探」(長沙呉簡研究会編『嘉禾吏民田家莂研究―長沙呉簡研究報告・第1集―』同研究会、二〇〇一年、所収)一六頁を参照。
(4)前掲四・二六二では米で准納されているが、布そのもので納める場合もある。またこの「布」の材質については、現時点では明らかでない。
(5)銭も米で准納される場合と銭そのもので納められる場合とがある。
(6)以上示したのは、嘉禾四年莂の記載順である。五年莂では書式が若干異なる。
上𦭰丘男子黄皆佃田九町凡卅一畝其廿六畝二年常限其十七畝旱敗不收布其五畝餘力田爲米二斛定收九畝爲米十斛八斗凡爲米十二斛八斗畝收布二尺其米十二斛八斗五年十一月五日付倉吏張曼周棟凡爲布二丈八尺准入米一斛七斗三升五年十一月六日付倉吏張曼周棟其旱田不收錢熟田收錢畝八十凡爲錢一千二百一十五年十一月十日付庫吏潘嘉禾六年二月廿日田戸曹史張愓校 五・六三
上𦭰丘の男子黄皆の佃田は九町で、合計で三一畝ある。その二六畝は、二年常限である。その(常限田の)一七畝は旱敗であるので、(米と)布を収めない。その(全体の)五畝は餘力田で、(畝ごとに米を四斗収めると、)米二斛になる。(常限田の)定収は九畝あり、(畝ごとに米を一斛二斗収めると、)米一〇斛八斗になる。(常限田・餘力田から収めた米は)合計で米一二斛八斗となる。(常限定収田および餘力田からは)畝ごとに布二尺を収める。その米一二斛八斗は、五年一一月五日に倉吏の張曼・周棟に手渡した。合計で布二丈八尺となり、准じて米一斛七斗三升(を入れ)、五年一一月六日に倉吏の張曼・周棟に手渡した。その(常限田の)旱田は銭を収めず、熟田は銭を畝ごとに八〇収める。合計で銭一二一〇になり、五年一一月一〇日に庫吏の潘(有)に手渡した。嘉禾六[二三七]年二月二〇日、田戸曹史の張愓がひきくらべて確認した。
右によれば、嘉禾五年莂においては、
[1]丘名[2]身分[3]姓名[4]総町数[5]総田土額[6]常限田総額[7]常限旱田額[13]餘力田総額[18]餘力熟田米税額(嘉禾五年莂には餘力旱田はない)[9]常限熟田額[11]常限熟田米税額[20]米総額[33]熟田布税率(=[12][14])[20]米総額(再出)[21]米納入日[22]米納入先[23]布総額[24]布納入日[25]布納入先[26]旱田銭税率[27]熟田銭税率[28]銭総額[29]銭納入日[30]銭納入先[31]校閲日[32]校閲者
の順序で記されている。[33]で四年莂の[12] [14]にあたる内容がまとめていわれているのは、嘉禾五年に旱田への布・銭の課税がなかっため[8] [15]をいう必要がなくなったからとも思われるが、四年においても布・銭税率は常限田・餘力田とも同率で、かつ銭の場合は四年莂でも[26] [27]で常限田・餘力田を一括して計算しているから、それにならって記載の簡略化をはかっただけかもしれない。
実際には、四年莂にしろ五年莂にしろ、釈文のとおりに連続して記されているのではなく三行分かち書きになっているが、本稿においては記載順が内容に直接関わらないこと、分かち書きの原則に関する議論が未だなされていないことなどの理由から、とりあえず釈文に従っておくこととする。
(7)關尾史郎「年次未詳田家莂の年次比定」(『出土史料を用いた漢魏交替期の社会変動に関する基礎的研究』平成一二年度~平成一三年度科学研究費補助金[基盤研究(C)(2)]研究成果報告書[研究代表者・關尾史郎]、二〇〇二年、所収)によれば、校閲月日・校閲者の職名および姓名などの情報から、四年莂を一七、五年莂を二一、それぞれ取り出すことができるという。
(8)胡平生・宋少華「長沙走馬楼簡牘概述」(『伝統文化与現代化』一九九七‐三)・邱東聯「長沙走馬楼佃田租税簡的初歩研究」(『江漢考古』一九九八‐四)・高敏「論《吏民田家莂》的契約与憑証二重性及其意義―読長沙走馬楼簡牘札記之二」(『鄭州大学学報』[社会科学版]二〇〇〇‐四)・胡平生「嘉禾四年吏民田家莂研究」(『中国出土資料研究』五、二〇〇一年)などがこの立場に立つ。これに対して關尾史郎「吏民田家莂の性格と機能に関する一試論」(前掲註(3)書所収)・「吏民田家莂の性格と機能」(前掲註(7)報告書所収)は、県と郷が分有する納税者台帳との見解を示している。
(9)田家莂が郷によってとりまとめて提出された文書であることは、いわゆる「表題木簡」の存在によって明らかになっている。参考までに、表題木簡の一例を示す。
東鄕謹列四年吏民田家別莂 四・三
東郷は謹んで(嘉禾)四年に吏民の田家が別ったところの莂を列ねます。
(10)前掲註(8)邱論文。
(11)王素・宋少華・羅新「長沙走馬楼簡牘整理的新収穫」(『文物』一九九九‐五)三九頁。
(12)高敏「従嘉禾年間《吏民田家莂》看長沙郡一帯的民情風俗与社会経済状況」(『中州学刊』二〇〇〇‐五)。呉海燕「“丘”非“郷”而為“里”辨」(『史学月刊』二〇〇三‐六)は、高敏が丘と里を同一視する点に賛意を表した上で、古代社会における地方基層組織の名称は多様であったとする。
(13)問題の箇所には、次のようにある。
上利
里州吏黄楊佃田卌六町凡卌六畝皆二年常限…(後略) 五・三八
上利
里の州吏黄楊の佃田は四六町で、合計で四六畝あり、皆二年常限である。…
(14)前掲註(1)。
(15)小嶋茂稔「「丘」に関する一試論」・關尾史郎①「長沙呉簡所見「丘」をめぐる諸問題」(ともに前掲註(3)書所収)・關尾②「長沙呉簡所見「丘」をめぐる諸問題」(前掲註(7)報告書所収)。
(16)前掲註(15)關尾論文①②。
(17)これと近い見解を示すものに、宋超「長沙走馬楼呉簡中的“丘”与“里”」(長沙呉簡国際学術研討会曁百年来簡帛発現与研究学術研討会会場配布レジュメ、二〇〇一年八月一五日~一九日、於長沙)がある。この他に丘と里の併存をいうものとして李卿「《長沙走馬楼三国呉簡・嘉禾吏民田家莂》性質与内容分析」(『中国経済史研究』二〇〇一‐一)があり、丘は里よりも規模が小さい「居民点」であると説くが、現存の田家莂にみえる民戸が各丘の構成員のすべてであるとみてその戸数の統計をとり、文献にみえる里の戸口規模と単純比較するその論法には従いがたい。また張栄強「孫呉“嘉禾吏民田家莂”中的幾個問題」(『中国史研究』二〇〇一‐三)は、人口の集中した地域には里が、分散した地域には丘がおかれたというが、では少数とはいえ里名と丘名が一致するケースのあることはどう説明されるのか。
(18)前掲註(15)小嶋論文。
(19)とはいえ、五年莂でも歩単位の記述は特定の丘に集中して出現する傾向にあり、しかも切りのよい一二〇歩(=〇・五畝)しか現れない丘がかなり認められるから、五年になって記載が一律に厳密化したというわけでもないようである。
(20)前掲註(15)關尾論文②二五頁。
(21)前掲註(15)關尾論文②註(25)は、この例外として「處」表記の四・三二が三月十八日の校閲であることを挙げており、『嘉禾吏民田家莂』上巻の釈文によれば確かにそうなのであるが、同下巻の図版に従えばこの「十八」は「六」の誤釈であると認められるから、これは例外ではない。
(22)後掲四・四九一にみえるように、「田戸経用曹史」の場合もある。「田戸曹史」はその略称であるらしい。
(23)中華書局、二〇〇一年。前掲の釈文・簡番号は同書に拠る。現代語訳にあたっても同書の注釈を参考にした。
(24)前掲註(15)關尾論文②二五頁。これらの墓券について、關尾は池田温「中国歴代墓券略考」(東京大学東洋文化研究所編『アジアの社会と文化』Ⅰ、東京大学出版会、一九八二年、所収)に依拠している。本稿で引用した釈文も同池田論文(二一九頁⑫、二二〇頁⑬)に従ったものである。
(25)前掲註(7)關尾論文。
(26)本稿で割愛した全データは、別途公開することを予定している。
(27)呉尺を二四センチメートルとして計算した。
(28)サンプルの番号であって、莂番号とは一致しない。あくまでも便宜的なものである。
(29)町数のメジアンは六・〇、畝数のメジアンは三〇・〇である。
(30)五年莂における町数のメジアンは八・〇、畝数のメジアンは二一・五である。
ところで、四年莂と五年莂のデータがこれだけ相違することの理由については、結論からいえば、現状では不明であるというほかない。ひとつの考えかたとして、五年莂においては田土額の記載が歩単位にまで及ぶ場合のあることから、嘉禾五年に度田が実施された可能性を指摘することができ、同年の作柄と税率について議論する中でその可能性をある程度確かめることもできるのであるが、それにしても懸隔が大きすぎるようである。四年莂と五年莂とで記載対象がほとんど重ならないことの結果と考えることもできるが、四年莂・五年莂の両方に出現する丘のうち莂が両年とも六枚以上ある丘について一町あたり畝数のメジアンを比較すると(【表5】)、ほとんど数値に変化がみられない丘が半数あると同時に、一方では大きく変動している丘も存在しており、解釈が難しい。この問題については、いま述べた作柄と税率の関係のほかに、開発の進展状況や開墾の際に餘力田・火種田が果たす役割などについても併せて考える必要があり、いましばらく検討を要する。よって本稿では、そのことを直截議論の対象とすることは避け、むしろその前提となる基礎的なデータの整理提供を優先することとしたい。
(31)四年莂では全体の一パーセントを目安としたので、五年莂でも同様にし一〇枚を基準とするのが妥当かもしれないが、四年莂と比較する際の都合から、率ではなく数を揃えることにした。
(32)ほかに、緒中丘を「渚中丘」、度丘を「渡丘」とみることもできようか。
(33)前掲註(15)關尾論文①②は、三世紀前後の江南で「丘」が土地の量詞として用いられていたことを指摘し、また前掲註(15)小嶋論文は、「丘井之式」の典拠となった『周礼』地官小司徒の一節には土地区画の一種として「丘」がみえていることに言及している。こうした背景を考慮すると、田家莂の「丘」を文字通り丘陵の意とみる必然性はないものと考えられる。ゆえに、こうした平坦な土地に対しても「丘」という呼称が適用され得たのであろう。
(34)丘名からこれを裏づけることはできないが、俠丘が「峡丘」の意である可能性もある。横渓丘・断流丘といったいかにも傾斜地を思わせる名称の丘も存在しているものの、莂の数がきわめて少ないため、一町あたり畝数を参考に供することができない。
(35)前掲注(11)王・宋・羅論文および王素「《嘉禾吏民田家莂》所見“己酉丘復民”性質新探」(前掲註(17)研討会配布レジュメ)は、復民を朝廷から功臣に賜給された「依附人口」であるとする。高敏「嘉禾《吏民田家莂》中的“士”和“復民”質疑」(『文物』二〇〇〇‐一〇)は、北方から南に移り住んできたものが士であり、自ら希望して税負担を一般民戸より若干低くされたものが復民だとする。
(36)前掲註(15)小嶋論文三八頁。
(37)丘名が判明しない莂のうちにも復民(四・五三七、四・五八九)・士(四・五四八、四・五五〇、四・六三一)身分のものが散見されるが、四・五五〇および四・六三一を除くとすべて一町あたり畝数が四年莂のメジアンを上回り、四・五五〇もそれをごくわずか下回るだけである。
(38)満田剛「長沙走馬楼吏民田家莂に見える姓について」(前掲註(3)書所収)の附表による。
(39)そうした意味で示唆的な名称をもつ公田丘についても、もとは己酉丘のような特殊な丘であったのかもしれない。そのようにいうとき、【表1】における公田丘の占有率の低さには留意すべきである。
(40)森本淳「嘉禾吏民田家莂にみえる同姓同名に関する一考察」(前掲註(3)書所収)。
(原載『東洋史研究』六二‐四、二〇〇四年三月刊。転載に際し誤記を改めた)
(編者按:本文收稿日期為2010年1月18日。)